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はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)
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今日は、功過格の話ではなく、来世の往生の話をしましょう。
とは言え、まあ、別に、いつも脱線しているので、いつもと同じような話ですが。
基本、因果応報の原則により、
人間の吉凶禍福というのは、自業自得です。
自分の過去の行動のカルマによるものです。
まさに、自業自得(徳)と言えます。
徳の有無が、本人の境遇を決めるのです。
しかし、世の中には、ズルをしたがる怠け者は多く、特別な方法でチート裏技を使って、難問をスルーしたがる輩がいるのです。
本来、自業自得の結果の来世の境遇を、信仰心という神仏へのゴマすりで突破しようという、小狡い手を使いたがるのです。
人間はチートが大好きで、努力など絶対したくない生き物です。
厳密に言えば、努力の有無に関わらず、生存競争において、勝ち残りたいのです。
死後の世界が、ろくでもない境遇になるとわかっていれば、回避したいのは誰しもが思う感情です。
それゆえに、来世に関して、権力者への、ゴマすり裏口入学とも言える教義の宗教は、宗教市場の覇者です。
イエスを信じれば来世は天国というキリスト教や、念仏を唱えれば極楽往生間違い無しという念仏浄土信仰は、およそ彼らの所属民族国家での、宗教市場を制覇しています。
※日本の仏教宗派は、念仏と題目がツートップ。
行動の有無によらない、信仰心だけの有無での、来世のランク決定がこれらの教義です。
怠け者の、人類という種の心理によく適合した教義というべきです。
念仏
我が国の、念仏仏教の浄土宗の開祖の法然は、仏教を、聖道門と浄土門に分類しました。
前者は自力で後者は他力です。
人間は、基本、怠け者なので、自力での成仏は難しいというマーケティング分析をしたのです。
まあ、ここまで、念仏信者を、怠け者呼ばわりにヘイトスピーチしてますが、単純に当時の鎌倉時代は、今の時代とは違って、悲惨な時代だったことも原因です。
この21世紀ですら、ナチュラルに戦争や飢えや貧困が横行しています。
※というか、現在進行系で半島と戦争しそうなのですが・・・。
人類の大半の歴史が、飢えと病と戦乱の時代だとすれば、法然のマーケティング分析も、あながち間違ってはいないのです。
生存環境が極端に悪ければ、善悪など言っている暇はありません。
善悪は贅沢品なのです。
基本、衣食住が揃ってこそ、初めて礼節が伴えるのです。
今、こうして安全な日本だって、いつ地獄に変わるかわかったものではありません。
なにせ、近隣諸国は全て敵国とも言える地政学的状態です。
いつ何時、核をぶっ放してくるか?
また、世界有数の地震地帯である日本列島は、周期的に大地震が伴います。
明日にでも、人が人を食う地獄絵図になるか、これまたわかったものではありません。
人間は所詮は社会的環境の生物です。
環境変数の入力条件次第で、いくらでも人格は変わります。
ぶっちゃけ、人間はただの生物機械です。
外部からの情報の入力次第で、思想・行動のプログラミングが決まります。
鎌倉時代に生まれていれば、皆さんも私も、ヒャッハーしてしまうのです。
これを、諸法無我と言います。
要するに、自我というものは、存在しないのです。
こうして、上から目線で善人面している豊河だって、クラッシュ時には、モヒカンに肩パッドでヒャッハーしている可能性があるのです。
そのように考えると、およそ来世の境遇を、善悪の行為によらず、内面の信仰のみで決める宗教は間違ってはいません。
仏の前では善人はいない。一人もいないのです。
陰徳
来世への往生へのパスポートは、自力か他力かの二つの選択肢です。
上記したように、環境によっては、他力選択をしなければ難しい場合もあります。
しかし、そうは言っても、今の日本でしたら、他力オンリーは「怠け者の言い訳」にしか過ぎません。
「自分は悪の組織に心臓に爆弾を入れられてる!だから悪事をしないといけない!」
レベルの強制力が無ければ、自力をしないことへの言い訳は出来ないのです。
基本、このブログは、陰徳をメインに、開運を示唆しています。
つまり、自力によるものであり、聖道門か浄土門かと言えば、前者の聖道門です。
要するに、自分を救えるのは自分しかいないのです。
まあ、厳密に言えば、本来、弱小種だった人間は、古来(万年単位の時代)から、神の助けによって、人間はどうにかこうにか生きていました。
開運には、守護霊や神仏の助けが基本的に重要です。
しかし、その神仏の助けも、本人に徳があることが前提なのです。
自力にしろ他力にしろ、徳のストックが無いと、難しいのです。
以前から言っているように、神仏の対価は徳なのです。
もっと言えば、神仏との取引通貨が、徳なのです。
メガテンでは通貨はマッカですが、それと同じようなものです。
分散投資
で、グダグダと書いていますが、何が言いたいかというと、来世への安心が、他力だけだと、保険的な意味で非常に危険ではないか?
という、ファイナンス理論(大げさ)からの素朴な疑問です。
リスク分散はファイナンスの基本です。
何せ、本当に、死後に、念仏やイエスの信仰が通用するか、わかったものではありません。
死後の世界は証明不可能なので、本当かどうかの検証が出来ないのです。
再現性が無いものは科学的確症は持てません。
何の証拠も無いのに、~したら、~になる。という論理を信じてはいけないのです。
親鸞の歎異抄を読むと、親鸞の弟子レベルでも、念仏で極楽往生するって、ほんとかよ?と疑っています。
よくよく考えてみれば、当たり前の話で、世の中に美味い話はそう転がっていません。
浄土信仰は悪人の信仰とよく言われます。
要するに、さんざん悪事を働いてきた悪人や権力者が、死ぬ前に来世の予測にビビって、念仏にすがるからです。
念仏信仰は、悪人だろうが誰であろうが、阿弥陀佛が極楽浄土に強制連行してくれるという教義です。
生活環境から、善事が出来ず悪事をやるしかない弱者や、世間から穢れた者とされた被差別階級者の、救済という面では、この無条件救済の教義は、優れた教義です。
ある意味、平等に関する論議と同じです。
結果の平等か機会の平等かの論議に近いものです。
しかし、平等論議でも、ここらへんのテーマは議論になります。
成果に関わらずの結果の平等に関して、それじゃ頑張った人間が損するだけでは?というツッコミは存在するからです。
共産主義という、壮大な社会実験(数億人単位の犠牲者)が大失敗に終わった今、無条件救済は、再考の余地があります。
資本主義か共産主義か、自己責任や再分配や貧困格差の問題にまで連鎖する問題です。
もちろん、さらに反論として、上記したように所詮、人間は環境の産物であるため、個人の努力などは無意味であるという意見もあるのです。
努力出来た人は、たまたま努力出来る環境にいただけであると。
諸法無我という仏教のドグマからも、それは一理あります。
どうせ、人間は全員悪人であるから、自分で善行などは出来ないというのは、上記したように、一つの真理でもあります。
東のエデン
上記の通り、宗教的な教義の哲学は、人間にとってコアなテーマなので、世界観の違いとして出てきます。
前述のように、経済学の違いにもからんでくるのです。
とは言え、無条件平等救済の共産主義が崩壊したところを見ると、我々は、結果平等を素直に信じることは難しくなっています。
もっと言えば、地上の楽園があるよというプロパガンダに関して、嘘くさいイメージがあるのです。
多少なりとも、歴史を知っている人間ならば、このフレーズに関して、ちょっと待ていというツッコミを入れなくてはいけません。
要するに、何らかのプロパガンダではないか?
という、ツッコミです。
よくよく考えてみて下さい。
かつて、国家権力が、地上の楽園を謳った前科を思い出して下さい。
大抵、ろくな結果になっていません。
どれもこれも、ただの棄民政策だったのが大半です。
白人をアジアから追い出してアジア人の共同体を夢見た大東亜共栄圏だったり。
明治に南米の新天地に行こうとか、昭和に満州に行こうとか、戦後に北の地上の楽園に行こうとか。
嗚呼!
人類の歴史における魅惑の理想郷(エルドラド)たちよ!
・ドラクエ6のしあわせの国→ジャミラス
・不動産は永遠に上がり続けるという神話→バブル崩壊
・ITバブルは永遠に続くそれは全く新しい経済システム→リーマンショック
・神国日本は神風が吹いて大勝利→原爆で敗戦
・この洗剤を売れば、不労所得生活→マルチ
・エジプトから脱出して約束の地へ→脱出世代は、全員約束の地に着くこと無く砂漠で死亡
・国家予算は埋蔵金がある!→短期政権
・アベノミクス。この道しかない→個人別GDP下落
騙されてはいけません。
極楽浄土と地上の楽園は、一体何が違うというのでしょうか?
そもそも、いい大人が、濡れ手で泡の儲かる話があるよ!と言われて、ほいほい信じてはいけません。
楽園はあるよとか、白馬の王子様がいつか迎えに来るとか信じて良いのは、初等教育までです。
人間は、太古の昔、不労所得生活のエデンの園から追放されて、額に汗して働くはめになりました。
いつの世にも上手い話は存在しないのです。
新しい上司は仏人
そもそも、念仏の対象の阿弥陀如来とか、イエスの信仰の天なる父は、信用出来る対象なのでしょうか?
現代の科学文明の開祖であるデカルトはありとあらゆる存在を疑う意識を持つように啓蒙しました。
当然、その疑問対象は神仏にまで及びます。
法然とか親鸞とかイエスは、信仰すれば、極楽浄土(天国)直行間違い無しと太鼓判を打ちます。
彼らの言っていることは、そもそも本当なのでしょうか?
我々は、ひょっとして、騙されているのではないでしょうか?
例えば、念仏の対象の阿弥陀如来です。
南無阿弥陀仏と、口称念仏すれば、極楽浄土間違い無しと、法然達は言います。
※厳密に言えば、阿弥陀如来の本願(18願目)によって、人類はみんな死後、極楽浄土に強制連行されると言うのです。
しかし、そもそも、阿弥陀さんは信用できる存在なのでしょうか?
豊河も、日本人なので、ナチュラルな文化的風土の中で、何となく無条件に信用していましたが、よくよく考えてみると、本当に阿弥陀如来は信用出来るのか否か疑問を呈する必要があります。
鎌倉時代の文盲の愚民は騙せても、宗教的天才の名をほしいままにする豊河(自称)は、騙されません。
そもそも、パンチパーマのメタボの怪しい風体のおっさんを迂闊に信じるのは、無防備すぎやしないでしょうか?
小さい頃、知らない人にほいほいついて行ってはダメだと親に教育されたと思いますが、そもそも、パンチパーマ、メタボ、インド人と、もう不審人物の役満です。
例えば、インド人が、
「イイ マントラ オシエルヨ」
「リスクナシで、ゴクラクジョード イケルヨ」
などと勧誘してきたら、ダッシュで逃げるのが普通です。
ところが、人間だと警戒するのに、仏だと途端に警戒ガードが緩んでしまうのは、我々、日本人のセキュリティシステムの穴を突いたハッキングです。
我々、日本人は、日本国建国当時の奈良時代からの伝統で、仏なら無条件にいいものだろうと、洗脳されています。
騙されてはいけません。
仏だからと無条件に信用してはいけません。
そもそも、人と仏なんて大した差はありません。
漢字をよく見てみましょう。
仏なんて人(ニンベン)にムがついてるだけじゃないですか?
大した違いはありません。
そもそも、仏蘭西(フランス)人なんて、生まれながらに仏人ですよ?
フランス国なんて仏国です。
全員仏人な、極楽浄土です。
この地球上に、すでに、仏国土は存在しているのです。
別に極楽浄土をありがたがる必要はありません。
低学歴の世界
まあ、フランス人はどうでもいいとして、念仏は、鎌倉時代のニーズに合わせた異世界転生のなろう小説です。
修行したくない、善行も積みたくない大衆の欲望に見事、マーケティングしています。
ちなみに、これは、現在のマスメディアと同じです。
例えば、マスコミ、特にテレビの白痴化や愚民教育っぷりは、問題になっています。
何でこんなに、程度の低い番組を作り続けるのかと?
ところが、この番組を作っている当のマスコミや電通は、超高学歴出身です。
※厳密には人質用のボンボンと実務の高学歴エリートが社員。
番組に関しても、綿密な統計データを用いて制作されています。
理由は、大衆は馬鹿が多いから、それに合わせて作っているのです。
近年、増加したスマホのガチャゲーも同じです。
人間の知能指数を下げるようなクリックゲームですが、大衆は馬鹿という統計結果に合わせた結果、そうなっているのです。
人間の低次元の欲望に合わせたマーケティングのビジネスモデルというのは、いつの時代でも当たります。
例えば、日本の高納税ランキングを見てみましょう。
上位には、パチンコやらサラ金やらファーストフードやら、明らかに底辺産業の社長がランクインしています。
この記事のはじめの方で、念仏やイエス教が、世界の宗教マーケティングを占めているという話をしました。
要するに、そういうことなのです。
人類は、IQ(学歴など)のピラミッド制です。
上に行けば行くほど数は少ないのです。
下に行けば行くほど数は多いのです。
つまり、市場を制覇しようと思ったら、圧倒的多数の愚民にマーケティングしなければいけないのです。
換言すれば、大衆に合わせた宗教というのは、底辺の馬鹿に合わせた宗教なのです。
なにせ、鎌倉時代の愚民にもわかるように開発したのが、念仏です。
念仏を非難していた法華経の日蓮ですら、じゃあ自分たちの布教はどうするか?という戦術の考案の結果、南無阿弥陀仏ならぬ南無妙法蓮華経というパクリマーケティングにしたくらいです。
低学歴マーケティングは、そういうものです。
ちなみに、法然も親鸞も日蓮も、凄い高学歴の知的エリートです。
こんなアホな低学歴宗教を作るくらいだから、馬鹿なんだろうなという思い込みは、彼らの履歴を見ると、覆されます。
要するに、先程の電通マーケティングのように、インテリが低学歴用のマーケティングを作っているのです。
日本が滅びますぞ!の日蓮も、あの行動履歴や現代までの信者を見る限り、さぞかし脳筋かと思いきや、著作を読むと、インテリ然とした文章で驚かされます。
余談ですが、欧州などは、低学歴宗教のキリスト教が国教になった結果、ローマ帝国もギリシャ文明のインフラ(哲学だったり風呂だったり)が潰れて暗黒の中世時代を1000年も続けたのです。
馬鹿に合わせた低学歴宗教は、このような弊害があります。
抜苦与楽
ちなみに、愚民だとか低学歴だとか、さきほどから豊河は、不当に念仏をディスってますが、厳密には、現代の低学歴マーケティングと、彼ら宗教開祖たちとは歴然とした差があります。
それは、衆生救済という慈悲心の有無です。
電通などは、資本主義の悪意を持って、低学歴に合わせてコンテンツを制作していますが、元々、開祖たちは、長年、比叡山で国訳一切経を何巡もしてきた仏教を死ぬほど学んできた連中です。
鎌倉時代の当時の悲惨さは、現代人には想像を絶するレベルです。
そもそも、大多数が文盲です。
衆生の抜苦与楽こそが、宗教の眼目です。
自力で修行出来るエリートや、善行を積める貴族階級は、既存の宗教がすでにあります。
生きていくには、修行も寄進も出来ない、悪行をせざるを得ない人々に必要な宗教マーケティングニーズに応えるという需要と供給を背景に、慈悲心を持ったからこそ、神仏が味方したのです。
日蓮などは、観音経(法華経のコンテンツの一つ)の念彼観音力刀尋段段壊をリアルで再現し、処刑シーンで、奇跡で免れています。
イエスですら、出来なかった処刑からのエスケープということをやっているのです。
皆さんも、宗教を立ち上げることがあったら(無いとは思いますが)、この一念だけは忘れてはいけません。
低学歴マーケティングやら奇跡の演出やらは、所詮は、方便です。
衆生への抜苦与楽と霊性の向上は忘れてはいけません。
手段は目的のために存在しているのに、いつのまにか、手段が目的になってビジネスになってしまうと邪道に陥ります。
一億総投資時代
さて、長々ダラダラと話をしてきましたが、結局、我々はどうすればよいのでしょうか?
このブログの目的は、個人レベルの開運です。
しかし、陰徳か念仏かの二択を選択しなければいけないということはありません。
上述したように、投資におけるリスク分散なのです。
宗教を投資に例えるとは何事だ?
と、思われるでしょうが、そもそも、宗教はギャンブルと同じです。
賭け金は我々の人生なのです。
今の時代、政府が国民に投資を薦める時代です。
貧乏な大衆には銀行口座でNISA(投資信託の税優遇措置)を、窓口で推薦されるくらいです。
どの宗教を選ぶかと言うのは、人生における投資信託と同じです。
安全なファンドもあれば、沈没するファンドもあるでしょう。
昔は、選択の自由などはありませんでしたが、近代以降は、宗教選択の自由により、自己責任の時代になったのです。
で、何が言いたいかというと、例えば、死後、選択した宗教投資信託ファンドが、役に立つのかどうかということです。
念仏は、死後、善悪に関わらず、極楽浄土に強制連行してくれるという株主配分を約束している投資信託(もしくは、保険商品)です。
そして、リスクは分散されなくてはいけません。
死後の閻魔大王の前での裁判は、今まで投資信託してきた総決算の場となります。
陰徳をやっていれば、問題ないのでは?
というのがもっともですが、しかし、この陰徳すらもリスク対策をとらなければいけません。
死ぬ前に、何があるかわかりません。
例えば、朝起きたら、ゾンビが徘徊するような世界(バイオハザードか?)になっていたら、生き残るためにゾンビと戦わなければならなくなります。
せっかく今まで陰徳投資で、蓄えた陰徳資本がゾンビ退治で減衰してしまいます。
退治したゾンビの中に、親とか坊主がいたらますます減衰です。
(専門的に五逆罪の構成要件)
そもそも、死ぬ前に積み上げた陰徳が足りない場合も考慮しなければいけません。
何せ、陰徳ポイントは目に見えないので、どのくらい貯まっているかわからないのです。
功過格の計算は、所詮、人間が勝手につけているに過ぎません。
思ったより貯まっていなかったか、気づかない過(マイナスポイント)や、前世のマイナスポイントで、総計額がショボくなっている可能性は十分にあります。
閻魔大王の前で、ドヤ顔して生前の陰徳を主張して、「いや、そんなに貯まってないから」と言われたらどうしようもありません。
分散投資で、念仏やらイエスやらを信じておいた方が、リスク分散になるのです。
これは、逆を言えば、リスク対策として、念仏などの信仰オンリーでも、同じことです。
陰徳も同時並行していないと、リスク対策になりません。
生前で念仏して、閻魔大王の前でドヤ顔でいたら、「いや、念仏に効果は無いから、というかそんな都合のいい話があるわけないでしょ?」とか言われたらどうするのでしょうか?
そもそも、阿弥陀ファンドが、いつのまにか潰れていたらどうするつもりなのでしょうか?
今の時代は、政府の失政で、年金などの老後の生活すらも信用出来ないのに、死後の世界までも対策をとらなければいけないのです。
昔だったら、普通に、右肩上がりの経済、そして地元の檀家寺で信仰を持っていれば、老後も死後も安定していましたが、現在は、自己責任の時代になってしまいました。
豊河は、陰徳ファイナンシャルプランナー(今勝手に考えた職業)として、皆様の不確実な現代社会の対応を、安心プランニングしているのです。
で、何が言いたいかと言うと、リスク分散で自力と他力は両方やっておきましょうという、ただそれだけのことなのですが。
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