2018年10月19日金曜日

必要悪のろくでもない話











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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。





暴力機関


このブログでは、因果応報という基本的な東洋思想を元に、開運の方法を述べています。

単純に良いことをすれば開運し、悪いことをすれば不運になるという、至極明快な思想です。

しかし、豊河は、性格がネジ曲がっているので、ほんとかー?ほんとにそうかー?と、絶えず、疑っている不信の輩です。

今まで、さんざん、いや、因果応報って差別思想であろうという記事を書いているわけですが、何回か、取り上げてきた必要悪の話を、またしてみましょう。


必要悪というのは、この弱肉強食の世界の中で、他者を傷つけたり殺したり肉にしてきたりと、悪業を生きていく中でしなくてはならないパターンの話です。

よく、暴力団やヤクザが、社会から無くならない理由として、必要悪だからという理由が述べられます。

要するに、犯罪者が世の中が回るには必要だという考えがあるのです。

もっと応用すれば警察や軍隊がそうです。

本来、民間人に禁止されている暴力を、これらの国家機関は、堂々と保持しています。

そして、有事となれば、本来ならば犯罪行為である暴力を行使する暴力機関であり、実際に、暴力を行使し、咎められることはありません。

さすがに、戦争犯罪などの場合は、終わった後で糾弾されることもありますが、基本的に、国家の暴力機関は、犯罪を容認されているのです。


そして、国家から容認されているだけではありません。
国民の我々も、特に問題が有るとは思っていないのです。

つまり、一般道徳のレベルで、
「容認される暴力・犯罪がある」
という、事実が、この世界には厳然として存在しているのです。


苦海


ただし、これは現実世界の話であって、宗教的な話ではありません。

基本、宗教はこの世の論理ではないので、上記のような、なあなあな曖昧模糊としたものは認めません。

暴力や犯罪は良くないけど、治安や国防のためなら仕方ないよね?

というような論理を認めないのです。

そして、それを実践すると、世の中では生きていけないので出家するしかありません。

因果応報のカルマの原則も同様です。

例え、理由があろうが、物理的なまでに正確な因果の法則は、したことがそのまま帰ってきてしまいます。

理由の如何を問わず、国家機関の暴力や犯罪は、そのまま罪となり罰として帰ってきます。
罪と罰というよりは、物理の作用・反作用と同じで、そのまま還ってくるということです。

しかし、そうは言っても、生きている内は色々と、我々も、悪事をしなくては生きていけません。

せめて、自分の命がかかった時の、正当防衛くらいは、許容して欲しいものですが、ガチの宗教論理は、カルマだからそのまま死ねくらいのことは平気で言います。

しかし、そんなことは不可能ですので、実際に正当防衛で殺してしまい、罪になるのです。

平和な民度の高い環境ならば、そんなことをする必要はないのでしょうが、民度の低い地域ならば、日常茶飯事でそんなことが起こります。

例えば、親が虐待してきた時に正当防衛で殺してしまうのは、宗教的に罪になるのか?と言えば、罪になってしまいます。

たたでさえ、生きてるだけで、他の生き物を殺して食っている人間です。

生きているだけで罪になって、その因果の結果、罰が来て不幸になってしまうのです。

全く持って、理不尽な話です。

それゆえに、六道輪廻の中でも比較的マシな人間界でも、所詮は苦海なのです。

生存そのものが苦であるという、仏教の教説の意味はここにあります。

単純に、自己防衛でもカルマになってしまうので、生きてるだけで、正当防衛で罪を背負うか、敵にやられるかの二択なのです。

このことは、単純に、善業をやれば出世して金が入り開運云々という話では無くなってきます。

偉くなればなるほど、必要悪の存在が重要視されてくるのです。



選択肢

ここらへんの必要悪のテーマは、非常に重要なので、何回も記事にしていますが、それだけ重要だと言うことです。

今の所の回避策は、

①偉くなっても危険な職業は避ける。
例えば、昔風に言えば、文官と武官だったら、武官は避けるなど。

②逃げるのも手である。
手を汚して地獄に生きたくなかったら、引退するとか、そのビジネスから手を引くとかも選択肢として考える。
この世の一時の損と、死後の地獄行きとどちらかがいいかは考えるまでもありません。

③受け入れて善のために悪事をする。
この選択肢は、宗教的には奥義に属するものであり、密教的な危険思想です。
闇があるから光が輝くとかそういう屁理屈の世界に近いのですが、悪が無ければ善が無いという二元論でも同じ理屈です。



善のために悪をなす


比較考量説を観るまでもなく、実際の世の中というのは、少数の悪事を許容して全体の善を守るということが起こりやすく、極端な話をすれば、人体実験して出来た新薬が、犠牲者よりも多くの人間を救えばOKだという考えは、根強くあります。

もっと言えば、初めから地獄に落ちるのを覚悟で悪事をするというのも、犠牲精神の発露としては、これまた珍しくありません。

例えば、戦国時代で民が困窮していたら天下統一をするのが、民の利益になりますが、そのために武将として万単位の兵や敵国の民を殺害虐殺したとします。

この場合のカルマと死後の裁きはどうなるのか?
敵を殺した罪と罰と、天下統一して万人を救った功績の善と報奨は、どう矛盾するのか?

もしかしたら、比較考量説で、差し引きで人数が多いほうが優先になるかも知れません。
明らかに殺した数よりも天下泰平で利益を得る人のほうが多いのでチャラになるのかも知れません。

しかし、そうならない可能性もあるのです。

功績に関係なく、殺した罪過で地獄に堕ちるというシステムかも知れません。

そして、
「地獄に堕ちると最初から分かっていて、天下万民のために天下統一した」
という方針だったら、これは、自己犠牲精神となります。

言ってしまえば、イエスと一緒で、自分が磔になることで、万民を救ったのと一緒です。

いわば、汚れ役です。

汚れ役は誰もやりたがらないのです。
しかし、誰かがやらなくてはならない。
そのため、貧乏くじを引いた人がやる。

これは、社長なんかも同じです。
みんな騙されて引き受けてしまう。
しかし、いざ社長をやってみると、自殺率NO1の職業なのです。

毎月、社員の給料を払わなければならない。
待ったは聞きません。
社員は必ず、給料を貰えるものと思っている。
そのプレッシャーは常人には耐えられません。

要するに汚れ役なのです。

そもそも、社長も悪人も彼らがいなければ世の中は回りません。

悪が無い世界は善しかなく、善は善だと認識出来ません。

また、善ばかりだと世の中は簡単に回っているものと勘違いしてしまいます。

金持ちが、世の中に貧困が存在しない、全て自己責任だと思ってるようなパターンがありますが、そうならないようになっているのです。


霊的進化


つまり、何が言いたいかと言うと、

「結局、何をどうやろうと、世の中から悪が消えることはない」

という、身も蓋もない現実があります。
悪だけではなく、貧困や病気や争いは、無くならないのです。

しかも、さらに忌々しいことに、世界進化論の考え方だと、世の中はどんどん霊的に進化する、少なくとも個人的レベルでは輪廻転生を通じて進化するという考えがあります(過去記事参照)が、

この考えだと、ロジックとして必要悪は必須になります。

理由は、進化するためには酸いも甘いも噛み分ける必要があるからです。

何でも出来て何でも解決できちゃう超人になるには、全てを知っている必要があります。

知識だけではなく、経験が必要です。
戦場も知っていなければいけないし、悪事も経験しなくてはいけません。
弱者の心を知るためには、弱者を経験していなくてはいけませんし、強者の心を知るためには、強者を経験していなくてはいけません。

早い話が、輪廻転生の中で、初めから霊的進化カリキュラムの消化項目として、悪事をやる項目があるということです。

もちろん、悪事をなした次の転生は地獄行きになったり、悲惨な境遇になったりしますが、それも全体スケジュールとしては予定調和の想定内です。

悪事が駄目と言いながら、悪事をやらないと進化出来ない。

この矛盾が、存在しています。
そして、その後の地獄も含めると、必ず、苦を体験するというスケジュールなのです。

これが、一切皆苦という意味のさらなる追加解釈です。

ほんと、世の中はクソゲーですね。

とりあえず、そんな感じで。




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