2018年10月8日月曜日

【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について 反論③業の空性 その⑥











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そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。






前回のまとめ



因果応報という、バリバリの差別思想を、無理やり擁護するための弁仏論を張る豊河。



とりあえず、



①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論



の、4つの反論を「無理くり」捻り出す豊河。
※詭弁レベルで無理やりやってます。


3つ目の、

③業の空性

です。
大乗仏教の空性という悟りの境地で、因果応報の弊害を無効化してみましょう。





理由



さて、ずーっと、豊河がしつこく言っているように、因果応報(カルマの法則)とは、重大な欠点があります。




因果応報の法則というのは、文字通り原因と結果、この二つです。

原因があれば結果がある。
これは単純な科学法則です。

逆を言えば、原因がなければ結果はない。
結果というのは、必ず原因に起因しています。

森羅万象あらゆるものには原因がある。
およそ、それは偶然というのを認めない思想です。

世界の全てのものは、原因と結果で成り立っています。
これに外れるものは何一つありません。
すべてのものは原因と結果の法則に内包されています。

さて、これらは、現代人の我々には自明の理として認識されます。
原因と結果の法則は、科学の基本だからです。

しかし、科学法則は、理系の分野であっても文系の分野ではあまりピンときません。

特に、人間関係はロジカルではないというのが、一般的です。

しかし、本来、因果の法則は森羅万象全てに当てはまるはずです。
特に、これに、 善悪の問題が絡むと、途端に宗教的になります。

善因善果、悪因悪果。
正式には、
善因楽果、悪因苦果。

原因と結果の法則には、本来善悪はありません。
種を土に埋めて水を与えれば、植物の芽は出ます。
それは、文字通り、原因と結果の法則です。

しかし、人間には、 善悪の観念があります。
また、感覚機能がある故に、苦楽の認識があります。

ここに、単純な因果法則に、人間の思惑や価値観が混じることになります。

例えば、ある人が、金銭から身を起こして成功したとします。
ここには、当然のことながら、原因と結果の法則があります。

それは、単純に、努力の量が多かったとか、才能に恵まれていたとか、運が良かったとか、環境が良かったとか、色々な条件があることでしょう。
それらの原因が、成功という結果を導きだしました。

これが因果です。
原因と結果です。

さて、ここには、善悪の問題はありません。
悪人だって成功できるのですから、当然です。

しかし、人間は、 ここに善悪の問題を絡めてしまうのです。

そもそも論として、前述したように、彼が成功した理由には、努力や才能や運や環境があります。
なぜ彼には 、そのような条件が揃っていたのか?という問題は残ります。

多くの人は、そのような条件を持っていません。
少なくとも、努力は百歩譲って誰でもできるとしても、才能や運や、環境は別です。

もっとはっきり言ってしまえば、生まれながらにして貧富の差はあります。
なぜこのようなものが生じるのか?


単純に、原因と結果の法則だけでは、人間には、この世界は、納得できないことが多いのです。

先ほどの例を取るならば、なぜ彼は、他の人と比べて成功しやすい条件で生まれてきたのか?
この時点で、すでに不平等は、始まっているのです。

さらに、そもそも論を言えば、人間は、生老病死と言う、理不尽なシステムに生きています。
現実世界や科学は、生老病死のメカニズムは説明できても、なぜこれが存在するのかは答えてくれません。

なぜ、特定の人に、幸福が集中するのか?
なぜ、特定の人に、不幸が集中するのか?

人間は、各個人個人で意識を持っています。
そのため、生まれてくる前の原因を知ることはありません。
つまり、この時点で、原因と結果の法則に適用しないのです。

厳密に言えば、この世だけで見た場合にも、生まれてくる時の、環境や家族、先祖、これらが原因として、彼の人生の結果として出ています。

人生の途中の、理不尽な状況についても、現世だけみれば、時間軸を遡れば、それ自体の原因は必ずあります。

しかし、不幸にあった人の、本人の認識からすれば、そのような原因はどうでもいいことです。

なぜ自分がこんな目にあったのか?

その訳が、たとえ、原因と結果として時間軸として、理論的に説明できるものだとしても、 やはり本人にとってはどうでもいいことです。

例えば、貧乏な家に生まれて不幸な人は、なぜ自分が不幸なのか?という疑問に、生まれた家が貧乏だったからという因果があることは知ってても、だから何だとしか言いようがないでしょう。





コントロール




そして何よりも、人間は、コントロールできないものを嫌います。

日本人は、他の民族と比べて、 あるがままを受け入れる民族ですが、これは、逃げ場のない島国でかつ、台風や震災や噴火などの、どうしようもない、環境の被害が多かったため、受け入れざるを得なかった、という理由があります。

しかし、その日本人ですら、自然を神として拝むことによって、何らかのコントロールをしようという傾向はあったのです。

そして、昔のインド人は、因果応報という理論を考え出しました。

これは、原因と結果の法則に過ぎなかった法則に、善悪と、苦楽の関連を追加したものです。
これによって、今までコントロール不可能だった、人生の理不尽な現象が、かなり説明可能、コントロール可能になりました。  




社会化



もともと、食料をめぐって他生物や同族と、殺し合いをしていた人類は、社会集団になってくると、社会の維持のために、違反者を殺すシステム、刑法を作りました。

ここで、罪と罰が明文化されたのです。

悪いことをしたら、刑罰を受ける。
悪因悪果、悪因苦果の現実化です。

我々が、因果応報という荒唐無稽なシステムを、ある程度是正するのも、この現実世界の刑法があるからです。

社会維持のため、権力者の自己保全のため、理由はともかく、何らかの罪と言われる行動パターンを実行すると、刑罰という苦を受ける。

これは、我々、文明社会の人間ならば、誰しもが知っていることです。

特に、社会が安定している状態になると、あまり理不尽なことは少なくなり、因果応報が現世の刑法と混同され、普通に、信じられやすくなります。

要するに、悪いことをすれば、罰を受ける。努力をすれば報われる。

これは、実は、安定したまっとうな社会や組織の、特長なだけなのですが、これが世界の真実だと思われやすくなるということです。

しかし、これは、いつも言っているように、危険性を帯びた思想になります。

悪因悪果の法則が世界にあるとすれば、当然、悪いことをすれば信賞必罰で天罰が下ります。

では、結果の方だけを見た時に、悪果(苦果)が起きた人は、全員、悪因が原因なのか?
つまり、不幸にあった人は、全員、過去に悪業を為した自業自得なのか?
成功した人は、全員、過去に善業を為した自業自得なのか?

という、問題が生じるからです。


本来、悪いことをしないで善いことをしましょうね。
そうすれば、ちゃんと神様が見てくれますよ。

という、倫理的な観念が、今度は、弱者への自業自得理論や、勝者への無条件の称賛につながってしまうのです。


これが、極まったのがカースト制ですが、このロジックが問題だと、ずーっと豊河が、言ってるわけです。

さて、また、長々と脱線してますが、これをどうするかの問題が、このシリーズなわけです。


今まで、色々と屁理屈をこね回してきましたが、今度は、大乗仏教の空の概念で、なんとかならんものかと、考えてみましょう。

空の解釈は、色々ありますが、マイルドな解釈として、

「全ての万象は、因果応報で構成されている非自立型の構造だから空である」

を考えてみましょう。






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