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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。
因果応報という、バリバリの差別思想を、無理やり擁護するための弁仏論を張る豊河。
とりあえず、
①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論
の、4つの反論を無理くり捻り出す豊河。
1つ目の、
①業の不可知性
が、まだ続きがあります。
無明の話の続きです。
やっちゃった
だらだら、書いてきた、業の不可知性(無明)も、今回がラスト(に出来たら良いな)。
で、結局、業は無明でかつ我々の構成要素で、業こそが、我々の存在そのものです。
で、自由意志なんてものは、全く無い。
これは、逆を言えば、全部、業のせいに出来るのです。
善だろうが悪だろうが、全部業のせいなのです。
自分が考えに考え抜いて、実行した行為も全部、業の誘導なのです。
釈迦の掌の孫悟空のように、全ては業の想定内の事象なのです。
しかし、同時に業は無明なので把握出来ないものです。
結果が出て、始めて業が理解できる。
そして、これは、同時に、逆を考えれば、業というものは、結果から逆算して定義できるということです。
先の記事のプロ倫の如く、結果(禁欲的資本主義)を良くすることで原因(神に救われる対象)を定義しちゃうのと同じです。
何が言いたいのかというと、
世の中、やっちゃったもの勝ちなのです。
だって、行動するという結果が出た時点で、それは業の結果なのです。
それは、自分の自由意志のない業による結果です。
要するに、我々の人生において、我々を縛る物は、何も無いということでもあるのです。
そもそも、今、ダラダラ書いている、この話は、因果応報論は差別思想を生むから、それを正当化しようという話でした。
で、反論パターンが三パターンあって、その1つ目が、業の不可知性(無明)でした。
で、何度も言うように、別に、業があって、過去や今が不幸でも、あっさり自分や他者が、それを解決してしまっても良いということです。
理由は、業が不可知(無明)だから。
死ぬまでこの不幸が続く業なのか、解決する瞬間までの業なのか、さっぱり見えないから、躊躇する必要は無いのです。
もっと、ハッキリ言うと、業も含めて、世界にしちゃいけないという縛りはありません。
世界は何だってやっていいのです。
やっちゃったもの勝ちなのです。
無論、それが成功するかどうかは別の話です。
成否は、業によって決まっていますが、その業すらも、事前には見えないので、やってみるまで、躊躇する必要は無いのです。
アイドルにプロポースしようが、大富豪に会いに行こうが、大統領を暗殺しようが、別に、全く、貴方の人生には、やってはいけないという縛りはありません。
それどころか、実は、成否すら気にする必要はありません。
だって、業が見えないということは、成功する業も見えないということです。
当然、成功する業(以下、成功業)が、あるかも知れないのです。
世界一の美女を口説こうとする人はめったにいないでしょうが、貴方が世界一の美女をゲットする成功業を持ってないとは、誰にも言い切れないのです。
現世的なあらゆる制約は、問題になりません。
~があるから、出来ないであろう。
このような、条件は、業の前には、一切無意味です。
失敗する業があれば、あらゆる条件が揃っていても、失敗します。
成功する業があれば、あらゆる条件が揃っていなくても、成功します。
そしてその業は、一切、わからないわけです。
善悪の自由
さらには、もっと極端なことを言えば、善悪すら無明なのです。
例えば、極端な例として、仏教から見た外道の思想に、順世外道という思想家がいました。
要するに、釈迦の時代の、釈迦のライバル思想家(六師外道)の一人です。
仏教が大勝利しちゃったので、外道扱いされていますが、哲学しそうとしても、非常に重要な位置づけにあります。
※ちなみに、ちゃっかりとジャイナ教の開祖もフクアmれています。
例えば、人を斬っても、それは原子(地水火風の四大構成)をすり抜けるだけであるから、カルマにはならないとかそんな感じの思想家たちです。
順世外道は、その中でも、業の強制力を強調していました。
例えば、人を殺そうとしたり呪ったとしても、罪にはならない。
なぜならば、業があれば死ぬし、業がなければ死なないであろう。
業に責任があるのであって、個人には責任がない。
こんな感じですね。
これは、仏教という因果応報の善悪をうるさく言う宗派から見れば外道ですが、ある意味、業という因果応報の考えからみれば、こっちの方が正統です。
今まで見てきたように、業を突き詰めれば、運命論となり、人間の自由意志はなくなるからです。
これは、絶対他力の念仏系でも、よく議論になってきた話です。
業があるから悪業に責任は無いとか、念仏を唱えたから悪業のし放題とか言った論理です。
※ちなみに、専門用語で、「本願誇り」というらしいです。
しかし、ここから、道徳無視のフリーダムになるか、逆に道徳的になるかは、指導者次第です。
プロ倫の話のように禁欲的になったり、だから解脱しようという方向に行くまっとうなルートもあるのです。
要するに、人間に制限が無い自由というのは、必ず、倫理の縛りが外れた暴走の危険性があるということです。
自分を不当に縛っていた鎖を外して、自由になるはいいことですが、それで犯罪に走られたら本末転倒です。
ここらへんの問題は、宗教よりも政治思想の方が専門でしょう。
犯罪者を牢に入れるのをやめるわけにはいきませんし、人間の文明で自由というキーワードが市民権を得たのは、つい最近の300年くらいです。
現代の自由平等博愛のスローガンは、秘密結社のフリーメーソンの概念ですが、彼らが、なぜ秘密結社だったのかは、この概念が危険思想だったからというのは、以前にも話題にしました。
※江戸時代に身分制度に反対したら、牢屋に入れられるのは言うまでもありません。
言わば、自由というのは、危険思想であり、秘密の教えであったわけです。
これを密教と言います。
ちなみに、シャレでも何でも無く、仏教の密教が密教たる所以の一つは、この自由思想です。
表の顕教の、道徳的・戒律縛りが無いからこそ、密教なのです。
空海が最澄に欲望肯定の理趣経を貸出禁止したのも、密教の危険性があるからです。
自由には責任と危険性が伴います。
世界宗教が多神教を邪教扱いしたのもこれにからんでいます。
表の顕教の倫理戒律は、自由というものに対して、危険性があると知っていたからです。
業が見えないから自由という、今回のカースト破りのロジックは、このような危険性があることも同時に我々は、知っておかなくては行けません。
ということで、ようやく、
因果応報論の一大ネックである差別肯定思想についてシリーズの、
反論① 業の不可知性
は、終了です。
で、残りの
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論
ですが、ぶっちゃけ、①で話した内容と被ってる部分が多いので、重複する部分は、はしょりますので、さらっとなる可能性が高いです。
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