2018年5月22日火曜日

【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について 反論① 業の不可知性 その⑪











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そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。




因果応報という、バリバリの差別思想を、無理やり擁護するための弁仏論を張る豊河。



とりあえず、



①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論

の、4つの反論を無理くり捻り出す豊河。



1つ目の、

①業の不可知性



が、まだ続きがあります。


無明の話の続きです。 
 





自他力


なんか、ダラダラと述べていますが、要するに、

我々は業が(結果からしか)見えない。
そして、業そのものが我々であると。
そのため、自由意志が無いということ。

ここまで、論理を展開してきました。

で、だからそれが一体どうしたという話ですが、このろくでもない世界のシステムを、何かまともな方向に止揚出来ないかということです。

災い転じて福となすのは、開運の基本です。

これを、ちょっと考えて見ましょう。

もう、そもそもの、テーマそのものも、なんか豊河自身忘れていますが、元々、業論は、差別思想に繋がるため、これを何とかしようと話でしたし・・・。


何度か言っていますが、人間に自由意志が無いというのは、宗教にとっては重要なテーマです。

実社会でも、自由意志がないと責任能力が無いと見なされてしまいます。

とは言え、実際には、未成年や禁治産者などでない限り、法律の責任は負うことになりますが。

問題は、それが業にも及ぶというところが問題です。

何が言いたいかと言うと、

「自由意志なんて無いのに、自分のやった罪や陰徳が、因果応報で裁かれるのはおかしくないか?」

というところです。

仏教だと、自力と他力の論争になります。

禅などの自力救済と、念仏などの他力救済の論争です。

これは、どちらも一長一短があって、元々、仏教の開祖の釈迦は、自分で修行して瞑想して悟りを開いて解脱しました。

そのため、自力救済の宗教が仏教です。

しかし、仏教は、因果論を採用しており、かつ諸法無我を教義にあげています。

そのため、自力なんてなくね?業が全てで自由意志なんてないよね?

というロジックも成立してしまうのです。

そのため、本来の仏教から見れば、邪道に近い、他力救済も正当化されてしまいます。




深夜の業力


我々、日本人は、禅のような自力救済も、念仏のような他力救済も、同じ鎌倉時代からの仏教として、1000年くらい歴史がありますので、どちらも馴染みの深いものです。

自力と他力のどちらの教義を聞いても、それなりに納得できます。

自力系の、特に禅系の教義は、特に空の教義の一貫として、いずれやりましょう。

今やってる、因果だとか陰徳とかは、空の境地から言えば、ある意味レベルが下の世界です。
善も悪も、スコーンと抜けるという境地が空の境地です。
※厳密に言えば、価値基準の判断が無いので、上も下も無いのですが。

で、他力系の教義ですが、ここで言っている自由意志が無いというのは、他力の教義に近いのです。

まあ、業という強制的な運命の話は、どうしても他力の話になりますし。


例えば、親鸞の歎異抄という有名な著作があります。

現代では、本屋に行けば(行くのがめんどい人はWEB通販でも)現代語訳や、果ては漫画でもあるので、一読されると、話がわかりやすいのですが、

歎異抄には、親鸞が、他力のエピソードとして、弟子に、こういったエピソードがあります。
ちなみに、うろ覚えなので、細かい部分は、てきとうです。

親鸞「俺の言うことマジで信じる?俺の命令百パー聞けるん?」
弟子「Sir! Yes! Sir!」
親鸞「んじゃあ、外行って、百万人ほど殺してきてくれ」
弟子「!?」
親鸞「お前、さきほど何でもやるゆーたやんけ!あぁん?」
弟子「それはちょっと・・・」

親鸞「な?うちら人間は、一見、自由に見えても、業が無ければ、何もできへんのやで!?良いことするにも悪いことするにも、業次第なんやで!?」
弟子「・・・」
親鸞「逆に言えば、業があれば、うちらは人殺しでも善業でも何でもやれるんやで?自力なんか何一つあらへんのや!?」

こんな感じです。

まあ、親鸞は、念仏信者なので、だから、他力本願して阿弥陀拝もうぜ!って話になるのですが。

要するに、みなさんが、今、この駄ブログを見て、陰徳をしたり、パワスポ行ったりして、神仏を拝むようになっても、それは全て、業なのです。

逆に言えば、みなさんが、環境の不具合で犯罪者になって悪業を積んだとしても、やはりすでに決められた業なのです。

輪廻の六道の中で、この業による強制連行を延々と漂っているのが、我々、生物なのです。

だからこそ、このどうしようもない業による流転の中で、運良く、陰徳を認識して、かつ実施出来る環境は運が良いのです。


というわけで、次回に続きます。














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