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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。
因果応報という、バリバリの差別思想を、無理やり擁護するための弁仏論を張る豊河。
とりあえず、
①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論
の、4つの反論を無理くり捻り出す豊河。
1つ目の、
①業の不可知性
が、まだ続きがあります。
無明の話の続きです。
前回は、
宗教は時代によって、ますますインフレするので、
拝む対象の戦闘力が、ますますアップしていく。
しかし、そのため、どうしても、
「そんなに強いのに、なんで何もしてくれないの?」
「そもそも、神が全知全能ならば、運命は全部決まっていて、人間には自由意志は無いの?」
という話になってくるという話でした。
で、コレに対して、当然、専門家は信者に対して、色々と言い訳をするのですが、中には、開き直って、
人間には自由はない!
とぶっちゃける、東西の聖職者も結構います。
因果応報の業を突き詰めた結果、諸法無我に至った仏教と同じです。
まあ、そもそも、人間は、勝手なもので、
不自由だと自由を求めて、
自由だと不自由を求める生き物です。
人間の内部で、
自由を求める精神と、
自由を放棄する精神のニパターンが、
絶えず陰陽で相剋しており、
どっちが正しいかどうかは、状況と、人の好みとしかいいようがありません。
しかし、当然、現代というか、
近代以後の自由・平等・博愛のフリーメーソンの三原則に染まった社会は、
前者(自由万歳)を称賛する傾向にあります。
人は、身分や国家権力などのあらゆる束縛から、自由を求めて、離れたがります。
ところが、神の権限が時代によって絶対化してくると、当然、人間の自由や業も、神の意思の配下に入ってきます。
全ては、神の想定内の事象になるのです。
これは、仏教の業も同じです。
基本、業は自己責任の世界です。
今ある、環境も、全部、業のせい。
不幸も幸福も、全部、前世や今生の過去の業の結果です。
しかし、この単純な論理モデルも、
業の存在を絶対化になり、全ての事象は、業が支配する話になります。
結果として、全ての事象は業によって、事前に決められているという、業の絶対化に帰結します。
ここで、人間の自由意志や、自己責任は、消滅してしまうのです。
業というのは、基本、我々が考えるのは、環境や外部的なイベントのことです。
日本に生まれたとか、男に生まれたとか、イケメンが告白してきたとかの自分以外の環境のことが良く言われます。
しかし、人間は社会的動物です。
水が方円の器に従うように、環境によって左右される生物です。
豊河は日本人なので、神道や仏教を論じています。
が、豊河が南米に生まれていれば、ブードゥー教を論じていたかも知れません。
社会的環境によって、個人の人生は大きく違っているのです。
さらに、外部と言えば、実は、肉体も外部です。
人間は、自分の肉体は自分のものと思っています。
しかし、人間(精神・自我)は、水のように方円の器に従います。
それは、社会的環境という器の中に従うと同時に、肉体にも従います。
つまり、我々の存在(自我)は、肉体と言っても、全く過言ではありません。
近代までは、魂と肉体という二元論が普通でした。
しかし、今は科学が進んでいるので、魂や精神と言った形而上学的な代物は脳の産物であると、考えられています。
脳をいじることで、人格が記憶や感情が変わってしまうことを、我々は様々な事例で知っています。
要するに、唯物論的に見れば、
我々の自由意志というものは、社会環境と肉体という、
「外部」の存在によって構成されています。
そして、この外部の物というのは、環境も肉体も、因果応報の業の結果に過ぎないのです。
過去に良いことをしたため、良い環境と良い肉体が与えられ、結果、良い性格や自由意志が生まれてきています。
逆もまた然りです。
ちなみに、余談ですが、良いというのは、現世的に良いというのと、道徳的に良いという二種類があります。
貧乏でも親や教育が良かったら、道徳的に良い人格が生まれるし、また金持ちで裕福に暮らしていれば、慈悲深い正確になることも多いでしょう。
どっちも、業による環境や肉体によるものです。
つまり、我々の存在そのもの、精神や自我というものは、結局、肉体や環境そのものなのです。
そして、それらは、結局、業によって構成されています。
一般に、業は、生まれの環境や突然のイベントくらいしか思われてませんが、
業をもっと突き詰めて、絶対化すれば、
二十四時間、365日全ての環境と肉体が、業によるものと言えます。
原因と結果が全てであり、現在は、過去の原因によって構成されていると。
結果、自由意志(精神や自我)などというものは、存在しなくなります。
要するに、今、このブログを見て、陰徳で運命改善しようと自由意志で思ったとします。
しかし、それも業の結果なのです。
このブログに出会う事自体が、業ですし、
さらに、このめんどくさい記事を読んでいること自体が、業です。
そして、陰徳を信じてやってみようと思うこと自体が、業です。
業によらないものは何一つありません。
生まれた瞬間に、生まれる以前に、全ては決まっています。
運命を変えようとすること自体が、運命で決まっているのです。
という、身も蓋もない嫌な結論のまま、次回に続きます。
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