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そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。
前回のまとめ
因果応報という、差別思想を擁護するための弁仏論を、張る豊河。
とりあえず、
①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論
の、4つの反論を捻り出す豊河。
1つ目の、
①業の不可知性
が、まだ続きがあります。
前回までの論は、
「そもそも、業というのは、前世までに溜まった分は見えない」
ので、
「仮に、過去から現在まで、因果で不幸(幸福)な状況にあっても」
「一瞬後の未来は、まったくわからないから、今の状況は、因果応報で自業自得!今後も助けない」
「と外野が見捨てる必要はないっすよ」
という話でした。
さらには、
助けても、本人から、
「業の解消を邪魔するな!」
と言われる筋合いは無いから、陰徳を抑止しなくてOKっすよ。
というか、インド人滅びろ。
という話を、前回しました。
これで、因果応報主義者が、差別論を張っても、反論出来るのです。
(無理だと思いますが)
因果応報論の、欠点の一つである、差別論や自己責任論はこれで解決出来ます。
で、さらに、これで、一神教の連中の
「お前ら多神教は、因果応報論でカースト制度している差別主義者だよな?」
「自己責任論で慈善とか福祉とか全くしない連中だよな?」
と言う、ヘイトスピーチに対抗することが出来ます。
というか、インド人のせいでエライ迷惑な話です。
まあ、実際に、神道や仏教の弱者への異様な冷淡さは、実際そのとおりなのですが。
というか、一番の問題は、豊河がこんなブログで言っていても、
世間様は、一ミリたりとも改善されないという現実です。
が、まあ、別に良いのです。
一応、このブログは、インターネットで、世界に公開しています。
少数の読者様にでも、認識されればそれで良いのです。
後は世代単位で、鼠算的に広がっていくのです。
そうして、因果応報の差別論に負けない陰徳者が増大すればするほど、
豊河の陰徳が増えていくのです(台無し)。
業は果たして完全なのか?
で、①業の不可知性
の続きですが、
業の不可知性は、前回言った、
「今貯まっていて、今後出る業」
が、ブラックボックス
以外にも色々とあります。
もっと言えば、業全体です。
それは、どういうことかと言うと、そもそも論として、
色んな幸・不幸のイベントって、
そもそも、ほんとに業の結果だったの?
という問題です。
このテーマは、④業の無効論
と被ります。
(というか、分ける必要が無い)
要するに、人生の色々なイベントが、本当に業の結果かどうかは、我々は、全くわからないわけです。
現世が原因の業なら、なんとか終えますが、前世だとすると、もうトレース(追跡)が、不可能になります。
前世の、300年前のイタリアでやった業の結果がこれとか言われても、証明しようがありません。
我々は、勝手に、物事に因果応報の理屈をレッテル貼りしています。
しかし、自然界の法則と、人間界の法則はまた違うものです。
この地球上に勝手に線を引いて、国境だの敷地だの言ってる例を見ればわかります。
要するに、勝手に自然界に対して、人間側が勝手に法則と呼んでいるだけですので、非常に怪しいのです。
まあ、業があるかどうかは、④業の無効論でやりますが、
とりあえずの問題として、それほんとに業のせいなの?という問題に戻るとして、
焦点になるのは、仮に業があると仮定して、
物事の結果について、業が占める割合は、何%?
と言う問題があります。
具体例を出すなら、例えば、今、右足が動かない障害があるとします。
すると、前世で他人をローキックしていた業があるわけです(別にローキックでなくてもいいのですが)。
過去に悪いことをしたから、自分に因果応報で跳ね返ってきて、自分の不幸がある。
これが、我々の言っている、因果応報の原則です。
陰徳で開運ハッピー♡という、このブログの根拠がこの法則です。
しかし、冷静に考えてみると、業の理論が、全てに適応すると考えるのは少々、大雑把な意見では無いのでしょうか?
たしかに可能性レベルの話として、全世界の全生命のすべての結果が、業によるものだとする意見もあります(というより前、自分が記事にしたような)が、何事も一般化するのは、認知の誤謬の一つです。
一般化の誤謬
ちなみに、認知の歪みの対策は、情報機関(CIAなどが有名)の分析でよく使われます。
いくら現場から情報(データ)を収集しても、それを使える情報(インテリジェンス)として分析・解析・結論しなければ使えません。
その際に、思い込みのフィルターがあると、使える情報にならないからです。
また、認知の歪みの対策は、心理学でもよく使われます。
認知行動療法という臨床心理学のツールです。
「認知の歪み」でググってみれば、わかりますが、こうした認知の誤謬の例が、色々と出てきます。
この場合は、「一般化」という認知の誤謬でしょう。
要するに、何もかも、因果応報のルールが適用されていると考えてしまうことの危険性です。
単純に、さっきの例だと、右足が動かない理由として、別に業でも何でもなく、ただの偶然という可能性だってあるわけです。
人は、理不尽な目にあうと、特に自分のことだと、自己愛から大仰に理由を考えたがりますが、
実際は、どうってことの無い理由の可能性が高いのではないでしょうか?
ちなみに、豊河はパワスポに行くと、
よく財布を落とすので、これは一体何の業があるのかと、
易を立てて見た所、
「いや、単に財布をしまう袋の口を閉じろボケ(坤為地の四爻)」
と、ありがたい啓示を頂いたことがあります。
まあ、そりゃ、そうやんなー。
偶然出会った二人
全宇宙の一切が業のシステムによって天羅地網されているという、可能性はたしかにありますが、
その証拠もまた無いわけです。
ただの何の理由もない偶然という可能性だって充分あるわけです。
なお、何の理由も無いという言葉の意味は、因果応報論によらないという意味です。
現世的な原因と結果の因果関係は別です。
足が動かなかったのなら、医学的に遺伝子的に原因があるわけです。
世の中のすべての事象は必ず、原因があり、結果があります。
風が吹けば桶屋が儲かるのです。
しかし、そうした科学的な因果関係とは別に、人間は、そういう原因自体がなぜ、自分自身に降り掛かっているのか?
ということに対して、人間はさらに別の属性を付与してしまいます。
やれ前世のカルマだとか先祖の業だとか、見えない立証不能な事象に、原因付けてしまうのです。
特に不幸でなくても、男女が出逢えば恋愛ボケした二人は運命を感じてしまうのです。
しかし、それは大して根拠がある話ではないし、あってもそれがすべての事象に適用できるのかあったく不明です。
まあ、何度も言うように、因果応報論の差別思想を教科主義に考えてはいけません。
他者の不幸があったら、賢しらぶって、
「これは前世の業である・・・」
などと言わずに、とっとと助けてやれよということですね。
で、また次回も、この業の不可知性の話を続けましょう。
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