2018年4月1日日曜日

【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について 反論① 業の不可知性 その①











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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。







功格五十条(善行のプラス50項目)

・善行の結果として、お礼の金や物品を受けた物を除く

十善に相当する行為
◯一有徳人を薦引す






前回は、このブログの最大の眼目である、因果応報と言う思想そのものが、差別主義のクズ思想であるという、ツッコミを提示しました。

まあ、ぶっちゃけ、そのとおりなのですが。

今回は、それに反論していきましょう。

ぶっちゃけ、あまりにもそのとおりなので、もの凄く反論しにくにのですが、仕方がありません。
というか、なんで豊河が反論しなくてはならないのか?
暇を持て余している坊主がやれよと言いたい。



とりあえず、豊河がぱっと思いつく反論は、下記の項目です。

※たぶん、話してる内に混ざっちゃうので、項目番号などは変更の可能性がありまうs。


①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論



まず、
①業の不可知性から、見ていきましょう。


愛がないと見えない






そもそも論として、ぶっちゃけ言って、そもそも業というのは見えません。


このブログで、上から目線で言っている陰徳だって、実際にあるかどうかわかったものではありません。

あったとしても、今、何ポイントか?
逆にマイナスは何ポイントか?

みたいな、感じの、
わかりやすい、RPGのステータス上で、見ることが出来ないのです。


トラックに轢かれて異世界転生すれば、別かもしれませんが、今、我々が居る、この美しい星のジ・アースでは、
「ステータスオープン!」
と唱えても、個人のステータス情報は見ることが出来ないのです。








今、自分が陰徳ポイントが何点貯まっていて、逆に罪業ポイントが何点貯まっているのか?

このステータスが管理者の神から、閲覧禁止になっている以上、我々は、業のことは正確には言えないのです。

まず、この大前提が存在します。





我々が、功過格をつけているのも、これが原因です。

デフォルトで、陰徳ポイントが、Dポイントアプリのように可視化されていれば、わざわざ表記する必要もありせん。

見えないからこそ、わざわざ計算しているのです。

しかも、この功過格はあくまで、現世の後天的なポイントです。

前世までのポイントが全く不可知です。



しかも、善悪の判断基準が、よくわからないという問題がプラスされます。



我々人間が、勝手に計算して点数をつけていますが、天界?の法則から見たら、ポイントの付け具合がどのくらい合っているのか全く不明です。


刑法の罪刑法定主義の原則が、全く適用されていない世界なのです。

現在の法体系では、人間の行動の自由を保証するために、何が罪なのか明記されています。

そうしないと、我々の行動が、自由に出来なくなるからです。



しかし、この目に見えぬ冥則は、全く不明確です。

功過格は、明の次代の産物ですので、現代の良識や法律に合っていない部分も多いのです。

そのため、たぶんこうだろう程度のレベルで、我々は善悪の計算をするしかないのです。



早い話が、我々が問題無いと思っていた行為や、善であると思ってた行為が、冥則で、アウトの可能性すらあるのです。

死ぬ時に、今回の人生はいいことしまくったなあ。
さあ、閻魔の前で自慢してくるかー。

と、意気揚々で、閻魔裁判の前に出頭したら、

思いもよらない事柄が、罪に引っかかって、

はい、豊河!アウトー!
(年末のダウンダウンのノリで)

となる可能性は十分にあります。

まるで薄氷を渡るが如きのリスクがあるのです。



帰納法



業のシステムが見えない以上、我々は、人間が出来る方法で、つまり科学的に対応しなくてはいけません。

幸い、人間は、帰納と演繹の能力があり、自然界や現象界を観察して思考することが出来ます。


「因果応報がある」という大前提を元に出発して、現象を観察した場合、単純に、今や過去の状況の個人歴史から、業を推測出来るのです。


単純に考えて、例えば、自分がやられていることを前世でやったと考えれば良いのです。

つまり、逆を言えば、今と過去の状況が現実として出ないうちは、業はわかりません。

現実を見て、類推するしかない。

今、金持ちだったら、過去世で貧乏人を助けたのだろうし、今、貧乏だったら、過去生で貧乏人から搾取したのだろうと言った、単純明快な公式です。

前世や今の業がどれだけあるのか?

というのは、そのまま、未来への不確実性を意味します。

どんな業があるかわかったものではないので、明日、いきなり死ぬかもしれないし、宝くじが大当たりする可能性もあるのです。

陰徳を積んで開運しようとしても、莫大な業が前世から引き継でいたら、焼け石に水程度の開運効果しか無いかも知れません。

※まあ、実際には、そういう突発イベントが無くても、今の現状を見れば、未来予測はだいたい想像がつきますが。
少なくとも、業がどうなっているかは全くわかりません。



で、この業の、(少なくとも前世の業は)結果からしか、わからないという業の不可知性が、問題の業の差別論に反論出来る燃料となりえます。


ということで次回に続きます。




















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