2018年3月21日水曜日

陰徳無駄使い論への反論の反論その②











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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。





苦行者はつらいよ





あまり言いたくないのですが、もう一つ、節約論には重要な利点があります。

それは苦行の有効さです。

元々、節約論は、「本来得るべき果報の楽(幸運)を節約してその分、福分を貯める」という発想です。

選択肢で良い選択肢を蹴って、グレードが下がる選択肢を選び、下げた分の福分を貯蓄するという、発想の陰徳の節約術です。

しかし、さらに高度な術者になると、グレードを下がるどころか、艱難辛苦の選択肢をあえて選択する剛の者が存在するのです。

一般には、このドM野郎は、苦行者とか修行者とか言われており、特に、他者の犠牲になっている場合は、聖者だとか殉教者扱いまでされる存在にまで出世します。

果報を消費しないで、節約するどころか、艱難辛苦の道を選び、その苦(悪因苦果)をあえて受け、悪業ポイントを消費する。

善業果報の節約と、悪業果報の消費を同時並行で行うという贅沢コースです。

そもそも、釈迦が苦行は止めろボケと言っているにも関わらず、相も変わらず徹底的にハードな修行をするぞとばかりに、苦行を行うのが人間という種の救いがたいところです。

が、前にも言ったとおり、釈迦は他人に苦行すんなと言ってるくせに自分は普通に苦行していました。

イエスもハードな断食苦行をしているところから見て、少なくとも一定の条件の人間には苦行は有効だとわかります。




というのも、大抵の神秘行のシステムを見ていると、必ず、毒出し(デトックス)の段階があるからです。

毒出しとは、方位でよく使われる用語で、吉方位に行くと、今まで貯めんでいた毒を吐き出すということです。

この場合の毒とは、体の毒以外にも精神の毒や運勢の毒など色々な意味があります。

肉体上の病として出たり、金の問題として出たり、人間関係や事故などという形で出たりします。

溜め込んだカルマを浄化させる段階で、一般には、不幸という形で出るのです。

これが毒出しです。

方位や、パワスポ巡りという、修行ですら無い旅行レベルですらも、普通にデトックスなどは日常茶飯事です。

豊河などは、伊勢神宮に行くたびに、いつもろくでもない毒出し現象が起きます。

去年の年末などは、財布を落として、三重の山奥の路線の駅まで取りに行ってきました。
まあ、見つかることからも、ただの不幸でなくて、デトックス(毒出し)なのですが、理由はさっぱりわかりません。




で、この苦行による悪業ポイントの浄化は、たぶん我々、人間個人に、相当深く貯まっていて、実質的に根絶不可の可能性が高いと思っています。

理由は、果てしない過去の輪廻で、清算されていないカルマが、もう天文学的な単位で、こってり貯まっているからです。

例えば、毎日のご飯ですら、普通に他生物を殺して食っているのです。
これは、人間だけでなく、全ての生物に生まれた段階で避けられない業です。

要するに、毎日、生きているだけで業を背負っている生き物が我々です。

これを根絶するのは不可能だと思います。

また、これは可能性レベルの話で確証は無いのですが、恐らく、業が根絶出来ないのは、神仏が、我々、個人や集団レベルを対象にした、「調教教育用に保存してある業」が、消費されないで隔離して保存してある可能性が、あります。

何を言っているのかよくわからんでしょうが(豊河も何を言っているのかよくわかりませんが)、
要するに、神仏が、我々を不幸のどん底に落としたり、逆に尊貴栄光を与えたり、自由に操作するために、使える業を消費させずに、我々の個人の業の保管場所に、貯めておくということです。

と言っても、別に、神仏は、悪意があってやってるわけでなく、教育目的でやっているっぽいのですが。

例えば、感謝の心が足りない人間に、貧乏に叩き落として感謝の心を思い出させるとか、そんな感じにです。




昔話にも似たような話があり、神仏という本来、善玉であるはずの存在が、わざと艱難辛苦を与えている話があります。


昔こんな話があります。比叡山で修行するある僧侶が「山王権現」を深く信仰していました。
山王権現は比叡の守護神です。
彼は大変貧しかったので日夜に財福を願いましたが、いくら熱心に拝んでも一向に暮らしは良くなりません。
決して信仰が薄いとは思わない。なのに…なぜ?
あまり良くならないので、業を煮やし知人に相談したら「財福と言えばお稲荷さんこそ頼むべきだろう。」と言われ、早速伏見にお参りしたそうです。
そうしたらその晩、夢の中に稲荷の壮麗な赤い社殿があらわれました。
それは伏見の稲荷社だったといいます。
そして社殿の扉が開き、そこには稲荷明神が現れていうには「汝は今日は良く参ったのう。誓願によって望むところの財福をとらすぞよ・・・」
僧は「実にありがたいことだ。願ったり叶ったりだ」と一心に伏し拝むと・・・
「…あいや、しばらく。」という声。
その方を見ればいつのまにか、衣冠束帯の山王権現がいます。「稲荷殿、その者に福を与えるのはやめてください!」
「何故でございましょう。」
「この者に今福を与えれば必ず欲に染まり好い僧侶にはなれないのです。私はこの者を育てるため、あえて財福を与えませんでした。」
「相分かり申した。では御免。」お稲荷様は去っていきました。

さあ、この夢を見た僧侶はその後、貧しさは相変わらずでしたが、それに負けずに修行や勉学に打ち込んで、ついに名僧知識と呼ばれる立派な僧侶になったとのことです。


ここらへんの、人間のカルマを自由に操作出来るスキルを、神仏は持っている可能性が極めて高い。
神仏の反対の悪魔とかも同様です。

やつらは、人間が間接的にしか手出し出来ない、個人の業というパラメーターをいじれる可能性が高いのです。

まあ、人間より上位の存在ですので、そのくらいの芸当は出来るのでしょうが・・・。

で、そのために、いつでも自由に使える、善悪のカルマを常に、我々の認識しないところで溜め込んでいるのでしょう。
我々の業の貯蔵庫に、「触るな!神仏専用」フォルダを作っていて、用途用途で、使っているのでしょう。

で、話がそれましたが、苦行者が、わざわざ苦行の選択肢をとる理由は、文字通り修行するためです。

基本は、一段上のレベルにアップするために行われることが多いのですが(少年誌の修行シーンを参照のこと)、その他に、贖罪(前世でやらかしてると今世で自発的に不幸な選択肢を選ぶ)のためだとか、単純に人生の運命に抵抗力をつけるという目的で選択することもあります。

(選択の認識でなくて運命で勝手に苦行させられることも多いです。というより大半がそれ)

で、抵抗力云々の話は、人生というか世界に対して、ネガティブ思考に考えている世界観が根底にあります。

要するに、自分から選択して苦行に慣れておくと、いざ運命の荒波に巻き込まれても、楽々クリア出来るというサバイバル的な発想です。

何というか、わかりやすく例えると、ダイエットの贅肉落としのような物です。

平時では別に太っていても全く問題ないのです。
しかし、いざ、走らされるような状況(例えば、ライオンが動物園から逃げてこっちにダッシュで向かってくるなど)になると、日頃の積み重ねが物を言います。

贅肉が付いた状況では走ってもすぐ追いつかれてジ・エンドになります。
しかし、普段からダイエットという苦行で、贅肉を落としていれば、いざという時も、問題ありません。

受験で志望校にギリギリ受かるレベルだと、受験日の当日、風邪を引いてしまったら、アウトです。
しかし、毎日の努力で志望校を寝てても受かるレベルまで学習を上げていれば、当日、風邪を引いても受かります。

占術的にも、人生は星の巡りで、必ず浮き沈みがあるので(沈みしか無い不幸な方もいらっしゃいます)、日頃から乳母日傘で暮らしていると、いざという時に耐えられないのです。

要するに、不運時にマイナス100の環境に陥った時に、普段から努力でプラス200の努力や苦行をしていれば、不運時でも、プラス100の成果を維持できます。

そういう、脳筋的発想が、苦行思想です。

※ぶっちゃけ、怠け者の豊河は、こんな脳筋的世界観に、一ミリたりとも、関わりたくないのですが、どうも、陰徳レベルが高まるとそうは言っていられない段階になりそうです。

ちなみに、ノブとサルの手柄を横取りした徳川家康の遺訓にも、
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
という有名な遺訓があります。


まあ、要するに日頃から、いざという時に備えて、訓練しておこうぜという、ただそれだけのことです。

まあ、大抵、泰平の世が続くと、精神不安定な人が、今の平和は虚構じゃ!滅びますぞ!日本が滅びますぞー!と力強い主張をしてくれるので、緊張には事欠きません。

戦後の日本のような泰平の世でも、前世紀末に人類は滅ぶとフィーバーしていたのですし、メメント・モリ(死を忘れるな)というのは、いつの世も需要がありますので、誰かが絶えず、油断しないように警告してくれるでしょう。





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