このブログの全体地図はこちら
はじめに(ご挨拶とこのブログの目次・地図)
陰隲録(陰徳による開運法)のまとめはこちら
【開運講座:陰隲録・功過格/袁了凡】全文現代語訳 記事まとめ一覧
パワスポのまとめはこちら
パワースポットまとめページ
健康コンテンツのまとめはこちら
【貧・病・争対策シリーズ健康編】まとめ
職業選択の不自由
選択肢のグレードを落とすということは、悪であるという話ですが、
選択肢を落とすことは、そのまま人生の選択肢の範囲を狭めることになります。
よく言われるように、上から下には行けるが、下から上には行けないからです。
例えば、金を持っている人間は、金持ち生活でも貧乏生活でもどっちでも出来ます。
しかし、金を持っていない人間は、金持ち生活は出来ません。
親に養われている年齢でも、社会人として就職した後も、下の階層だと、人生経験が薄くなります。
変な話ですが、一般のイメージだと、上の階層の方が不自由で、下の階層の方が自由で人生経験豊富なイメージがあります。
しかし、実際には逆のことが多いのです。
理由は、時代が変わって、あまり身分による義務が無くなったため、金持ちが自由に行動出来るようになったからです。
金と地位がイコールでなくなったため、金持ちが地位の義務に縛られずにいられるようになったからです。
今で言うグローバル化、ノマド化です。
逆に、低階層は、行動の自由も何もかも金欠に縛られて、人生経験が形成出来ないのです。
これも、資本主義が進み、貨幣制度が隅々まで行き渡った結果、通貨(金)が無いと何もできなくなったからです。
地域コミュニティが崩壊して個人が分断化した結果でもあります。
一例を上げれば、旅行などでしょう。
貧困状態では、国内も国外も旅行すら行けないのです。
他国の文化を見ることは人生経験を高めますが、その機会すら無いのです。
これは昔でも同じで、旅が出来る人というのは、豊かな人でないと出来ません。
旅の途中は生産活動をしないので、金を稼げないからです。
昔の時代に旅が出来るというのは、相当豊かな人でないと出来ないのです。
※旅芸人など旅が本職の人は別ですが。
もちろん、下から上にも行けないことはありません。
卑賤の身から立身出世して波乱万丈の人生を経験する人間はいますが、そういう人は例外中の例外です。
大半の人の実例は、金が無ければ、不自由なのです。
実際、現在の日本の少子化は、原因の大きな要因として、若者の貧困があげられています。
賃金が低下し、非正規雇用が増加した現代では、マイホームは愚か、結婚、子育てすら贅沢品なのです。
現代では、一握りの高所得層と大半の低所得層の、二分化したアメリカ型のディストピアの社会になりつつあります。
下手に人生の選択肢のグレードは落としてはいけません。
家が貧困だった人は、よほどの才能が無ければ、そのまま下層のままです。
学校に入っても、他の学生が塾で勉強している間も、アルバイトや家事をしなくてはいけません。
逆に、裕福な家の子供は、アルバイトも遊びも勉強も全部選択出来るのです。
経験値が足りない
人間は平等であるというのが建前ですが、実際は違います。
見かけの物理的構造は同じでも、中身は天と地の差が出ているのです。
その差を分けるのが、経験値です。
例えば、スライムが二匹いたとしましょう。
片方はレベル1のスライムで、片方がレベル100でカンストしたスライムです。
この二匹は見た目も全く同じスライムですが、もはや別の生物です。
これは人間にも当てはまります。
凡夫と釈迦やイエスは同じ人間で物理構造も全く一緒です。
しかし、中身の経験値が違うのです。
そのため、結果として全く違う生物と言っていいほど違ってしまうのです。
逆を言えば、同じ経験値さえ積めば、同じになるのです。
釈迦やイエスと同じ経験値を凡夫が積めば、彼らも釈迦やイエスと同レベルになれるのです。
聖典経典古典が重要な意義はここにあります。
古の聖賢君子と同じ経験値を積めば、同じ聖賢君子になれるのです。
例えば、以前も言いましたが、わかりやすいのが、観音経です。
法華経の中でも独立した存在になっている観音普門品(通称観音経)ですが、中身を見ると、ひたすら、念彼観音力~の羅列が続いて、リボビタンAのファイト一発の如く、観音菩薩がいかに危機一髪で救うという事例が続く、ドヤ顔経典です。
これは、要するに、観音菩薩というのはこういうことをする存在であるという実例集なのです。
観音菩薩はこういうことをする→だから、逆を言えば、これをすれば、観音菩薩と同じレベルになれますよ、ということでもあるのです。
仏教は元々、成仏を目指す宗教です。
まあ、成仏の定義は、宗派によって違いますが、大乗仏教の菩薩の概念は、こういうことをする存在が仏だと考えられているのです。
成仏というのは各宗教宗派の、最終的な理想境地です。
例えば、儒教ならば、徳が高く人民を治める君主が成仏です。
それが実現可能かは別問題ですが、こういう風に生きろ行動しろ思考しろという、行動計画書や命令書が聖典経典古典なのです。
※逆に、これはやるなという失敗例も載せていますが。
そして、これらの宗教的経験は、金がいります。
一般のイメージに反して、宗教というのは金がいるのです。
人生の選択肢でグレードを落とすと、金や権力が用意出来なくなり、宗教的修行や陰徳が出来なくなります。
つまり、人生の選択肢で妥協してはいけません。
間違っても、ダメな方に選択してはいけません。
上から下にはいけますが、下から上に行くのは非常に困難です。
さて、次回は、前回と今回の「無駄遣い論への反論」に対して、さらにひっくり返して、再反論しましょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿