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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。
前回、リスク対策をとらないと陰徳が危険防止のため自動で減算してしまう!
という、話を前々回からしています。
それで、当然、連鎖する項目として、
1)リスク対策ってどうするのか?
2)どこまでが自由意志(or運命)なのか?
という話になりました。
前回、1をやったので、今回は2をやりましょう。
想定内
そもそも、リスク対策と言うのは、リスクに対して、人間が意識して対処する物です。
前々回から言っているように、リスクが降り掛かって来た時に、対処していないと、神仏自動ガードパッシブスキルが発動して、陰徳Pを減らしてしまうからです。
しかし、ここで素朴な疑問が起きます。
そもそも、人間はリスク対策などが本当に可能なのでしょうか?
と。
因果応報の法則に従えば、リスク(災難、不幸、苦)は、過去の自分の不徳によるものです。
要するに、自業自得なわけです。
それを解消するには、原因分だけ(利子がつかないと仮定して、苦しめばいいわけです。
しかし、リスク対策をすれば、その分、因果が解消されることなく、再び、因果応報のブラックボックスに回収されてしまいます。
そして、原因分だけ苦しむイベントが現象化するまで、因果応報HDDに格納されたままだということです。
要するに、苦という現象が起きないと、悪徳ポイントは減らないと言う悲しいシステムだと言うことです。
他の回避法を使っても、先送りするだけであると。
可能性としては、悪徳の反対の陰徳で、マイナスをプラスで打ち消すという方法が考えられます。
借金が100万円あっても、100万円稼げば、借金はチャラになります。
しかし、悪行と善業のポイントは別換算で計測されているという話も多く、結局、善業ポイントは幸福で、悪業ポイントは苦でしか、清算出来ない可能性も高いのです。
仮に相殺出来たとしても、今度は陰徳ポイントが必須になるということです。
苦か、陰徳かどちらにしても、災難を消失させるには、何らかの代償が必要なのは変わりません。
そうすると、そもそもリスクに対して、注意して災難を避けることは、意味が無いということになります。
遅かれ早かれ、苦か陰徳かで、カルマを清算しなければいけないからです。
さらに、リスク・災難に対しての陰徳の神仏自動防御は、陰徳でのカルマ清算ですが、そもそも、陰徳を使うような危険行為をやるのは、業の為せる技です。
危険な環境や危険な行為と言った物は、徳があれば実施しません。
そして、陰徳が無ければ、そのリスクを回避出来ません。
要するに、リスクがある状況も、リスク対策もどちらも、もとから業、運命次第なのです。
想定内2
そもそも、この何もかも想定通りという、全てが運命の中という考えは、どこまで正しいのか、わかったものではありません。
運命というものを分析する占術や宗教は、昔からこの問題に直面してきました。
陰騭録の本文でも袁了凡が当初は運命論者になっていたように、人間の後天的な行動の価値を無かったことにしてしまいます。
全てが運命通りならば、特にすることは無いからです。
陰隲録の場合は、運命は変更できるという設定でした。
しかし、もっと考えてみると、占術で見ることの出来る運命がしょぼいだけで、もっと上位存在が閲覧可能な運命は、そこらへんも踏まえて、もっとカッチリキッチリ決まっている可能性があります。
要するに、運命が悪くて、それを改変しようとする動きすら運命なのです。
初めからその人の運命として
「運命を改変しようとする運命」
があるという、ややこしい話なのです。
例えば、豊河がこの前、宿曜経の本で自分を見てみたら、「この日は施しをするのに良い。因果応報で自分に返ってくる。天(宿曜経は仏教なのでこの場合の天とは、天部や神道の神々)を祀るのによい」
とありました。
他の占術結果を見ても、似たような結果で、要するに、こんなブログで陰徳やパワスポ記事を書いて、運命を更新しようぜと、小賢しいことを言っているのも、単に運命通りの可能性があります。
要するに、結局、我々は運命通りの人生を送っている可能性があるのです。
自由
何度か書いたような記憶がありますが、この運命はあるのか無いのか問題は、宗教上では神のメンツに関わります。
基本、宗教では神は偉い存在という設定ですので、運命という人間にはどうすることも出来ない問題も、神のコントロール範囲内ということにしないとメンツが立たないのです。
文明度が低いレベルならまだしも、巨大帝国を建てて、皇帝という現人神を創出するような文明になると、自然界の神々よりも、上位の絶対神を構築しなくてはならなくなり、必要的に、因果や運命を超えた存在を人間はひねり出すのです。
逆に言えば、人間に対応不可な運命の問題のために、神は作り出されたと言えます。
とは言え、逆に時代が下って今だともっと神の価値は下落していますが。
昔は、民主主義以前の封建主義時代だったこともあり、神や仏は全知全能で、運命はキッチリカッキリ決まっているというのが一般的でした。
当然、これは身分制度などの社会システムの固定化に繋がります。
一生、生まれた土地や職業や身分から変わらないわけです。
運命を変えるというのは、ある意味、社会革命と同様です。
まあ、問題は、その運命のスケジュール自体が、その行動をも予定されている可能性があるということですが・・・。
運命論は、それなりに効果があり、極めれば、悟りになります。
※陰騭録本文の袁了凡は初め運命論者でした。
宗教教義的には、世界が自分通りに行かないという諸法無我に繋がるからです。
娑婆からの遠離に繋がるので、出家者としては、仏教の四法印になるのです。
逆に言えば、諸法無我の範囲内に、運命論が入ると良い変えても良いかもしれません。
運命は変えられるという話にしても、所詮は、六道の中をぐるぐる廻るだけのことです。
永遠に安住の地は無い。
さまよえるオランダ人は永遠に海の上を漂流しますが、六道の海を永遠に徘徊するのが、生命の本質です。
運命論に諸法無我にしろ、共通しているのは、不自由ということでもあります。
自由と不自由の相剋こそが、この問題の核となっています。
で、最後の最後まで、人間には自由は無いというのが、諸法無我や運命論です。
近代以降の教育を受けた現代人から見れば、自由が無いというのは、狂った意見ですが、少なくとも、昔には自由など無かったのです。
逆を言えば、近代以降や未来に生まれなければ、自由という概念は無かったわけです。
で、その生まれというのは結局、運命なのです。
近代以降に生まれたというのは、運命以外の何物でもありません。
たまたま、近代以降のこの時代に生まれたからこそ、自由という言葉が言えるわけです。
つまり、自由が言える時代に生まれるという運命があって、それに縛られているわけです。
その意味で、全ては運命通りで、人間には自由は無いのです。
とは言え、全てが運命通りと言っても、実質的に、昔よりも現代、現代よりも未来において、自由度は高まっています。
人間は今後も、社会システムが変わり、人間自身もガンガン改造されて、AIと融合したりしていくでしょう。
文明レベルも中身も変わった人間は、過去の人間よりも自由な存在です。
寿命だって、不老不死になれるかも知れません。
ちなみに、これが極まったのが、六道の天道です。
まあ、要するに、天国のことです。
ある時代や、未来に生まれるのは、運が良くないと出来ませんが、その運というのは前世の徳如何です。
そして、同じく、天道に生まれるのも同様の理由です。
天道は下の人間道よりも、自由な世界です。
仏教では、天部の連中がここの生き物です。
※神道の神々も仏教的にはここ。
~自在天(天神菅原道真公だったら天満自在天)とか言いますが、要するに自在(自由)な存在です。
お金だろうが美食だろうが美女だろうが、自由自在です。
人間で言うと、王様や金持ちの家に生まれるのと同じような感じです。
※まあ、上位クラスの家に生まれるとそれはそれで色々と義務がありますが。
この自由と言うテーマは、仏教や道教(仙道)でも、重要なテーマですので、いずれ記事を改めて、追求しましょう。
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