2017年7月24日月曜日

馬鹿とテストと禅問答②









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なお、皆さんの記事の感想大募集です。
陰徳や積善積徳、改過の話やコツなど、体験談を大募集中す。ご遠慮無く、ご書き込み下さい。
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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。

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馬鹿になれと説く愚民化政策。
しかし、本当は馬鹿になることこそ、正解なのである。

Let it be. 
全てはあるがままに
はもう古い。

Let it be fool.
全ては馬鹿のままに。






脳筋


基本的に、宗教は、知性主義と反知性主義が同居しています。

宗教セグメントには、必ずこの2つの矛盾したテーマが内包しているのです。

厳密に言えば、宗教に限らず、どこの業界もそうなのですが、
創業期は、脳筋(脳味噌が筋肉という反知性主義)が多いのですが、
泰平期は、育ちの良い頭の良さが重要視されます。
具体的に言うと、学歴の高い秀才が入ってきます。



宗教も同様です。
基本、創業者は、反知性主義の脳筋です。

これはイエスや釈迦も同様です。
当たり前の話ですが、仏教でもキリスト教でも今の膨大な経典や神学は、後世に作られたものです。

イエスは大工のこせがれですし、釈迦に至っては酒池肉林生活を送っていたボンボンです。
彼らの言動は普通に、後世の複雑怪奇な神学と違って、脳筋な権威への反逆的行動と、素朴な説法です。

当時の支配宗教への反逆的な脳筋的批判が、メインです。


大抵の宗教は、神がかりの基地外のおばさんがシャーマンとして神の言葉を語ることから、登場します。
もちろん、大概は、このまま終わるのですが、そこに、頭のいいブレーンがつくと巨大化します。

さらに、教団がでかくなると、高学歴の信者が集まって、象牙の塔に篭って、複雑怪奇な神学を構築するのです。


ただ、時代の流れはどんどん変わるので、やがて権威科して、かつて自分たちの開祖が批判したような時代遅れの硬直した教義となります。

そうすると、開祖のような脳筋が現れて、批判し始め、それが大きくなると、新しい宗教を立ち上げてしまうのです。
(宗派の内部からの独立も多い)

基本、宗教の歴史はこのようなものです。

脳筋とインテリの寄せては返す波のように繰り返さ得れるのが、宗教史です。




脳筋マーケット



大抵、その復古主義の、脳筋の開祖の、言っている内容は、驚くほど、同じです。

神に戻れだの、
今の教団は腐敗している!だの、
ガチガチの戒律よりも信仰心の方が重要だろ!だの、
権威化して権力者と結びついた!だの、
教団は救われない弱者を放置している!だの、

とか、古今東西、テンプレ化しています。

要するに、教団が権力化して保守化すると、救済対象に漏れる階層が出てきます。
需要があれば供給が現れるのが資本主義の鉄則です。

既存の権威の救済対象から外れた、救済に預かりたい需要に応えて、新しい宗教はニーズに供給するために現れるのです。



イエスの時代だったら、娼婦や徴税人でしょうし、
ローマ帝国のニーズは、帝国が求める包含的な、脱民族的なグローバル宗教でした。

釈迦の時代だったら、当時、勃興してきたインドのブルジョア階級です。
鎌倉時代だったら、東国武士や庶民などです。



何しろ、その時々の当時の、救済対象ではない被差別階級への供給なので、対象に合わせた、反知性主義の脳筋教義です。

念仏などは、戒律も修行も教義も一切放棄した、南無阿弥陀仏だけでOKという、脳筋の究極です。

禅も同様で、東国武士(野盗と大して違いが無い脳筋集団)向けの宗教なので、内容は推して知るべしです。

「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」
禅の教義の通り、反知性主義の極まりです。
※と言いつつ、一番、教義を文章化しているのが、禅宗なのですが。



こうした、宗教の脳筋反知性主義ですが、基本は上記したように、愚民向けの脳筋教義です。
愚民は難しい神学などいらないのです。

宗教が救うべき対象は、その当時の、救済に預かれない層です。
たいてい、世間的に迫害されている低階層なので、脳筋なのです。
当然、脳筋を救うには脳筋な宗教なのです。


大衆にはひたすらワンフレーズを繰り返せと、プロパガンダの大家のゲッペルス先生(ナチスの宣伝大臣)も言っています。
衆生の救済には理屈はいらないのです。

勢いとノリの脳筋がいつの世も大衆を支配出来るのです。




真髄



とは言え、インテリは小難しい話が好きなので、
彼らは、こうした脳筋教義に文句をつけます。
愚民向けのためとは言え、宗教は脳筋でいいのか?と。

しかし、当たり前ですが、インテリなどは、世間の少数派です。
世間の大部分が愚民であり、脳筋であることを考えると、別に脳筋教義でいいのです。

世界で一番売れている、ハンバーガーとコーラは、豚の餌のジャンクフードです。
しかし、世間で一番売れているのは、それなのです。


さらに言えば、脳筋脳筋と、一概にそうは言えない面があるのが宗教です。

宗教の創始は元々、反知性主義の脳筋だと言う事は前述しましたが、基本と言うのは往々によって、奥義の場合が多いのです。

職人や武術の達人の動きが、シンプルなのはそのためです。



実は、反知性主義の脳筋こそ、宗教の真髄である可能性があるのです。


この可能性を次回は、もっと考察してみましょう。





2017年7月23日日曜日

馬鹿とテストと禅問答①











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集積データ


毎日、長々と無駄に文章量が多いこのブログ(単に豊河が文章をまとめる能力が低いだけなのですが)を読んでおられるような知能の高い皆さんは、
実社会でも高学歴の教養のあるインテリなので(勝手に認定)、本屋には良く行っておられると思います。


豊河などは、皆さんと違って、非才無学な凡人なので、いつも、部屋に積んでる未読の本含めて、本屋や図書館に行くと、その汗牛充棟の山の前で、

「糞ッ! 現代日本という情報・学習環境には事欠かない、宝の宝庫にいるのに、インプットのステータスの低さのおかげで、まさに宝の持ち腐れだ!」

と、自分の「無知の知」に、憤然やるかたない気持ちになります。

もう最近は、

「俺、この人生がトラックに轢かれて死んだら、異世界転生に際して、神様から貰ったチートスキルで、学習能力の高いステータスやスキルを貰うんだ・・・」

と、死亡フラグを立てるような妄言を吐くようになっていますが、幸い、死亡フラグは回収されていません。


まあ、豊河の魂の慟哭はどうでも良いのです。
本やネット上の電子データは、人類が悠久の昔から、蓄積してきた膨大な知的遺産です。

文字という情報は、人類が他生物に比較して、圧倒的な有利さを生み出すチートスキルです。

人類がこの地球上で覇者になれたのは、ひとえにこの文字というチートスキルのおかげなのです。




地頭(ハゲの隠語)



だが、この文字による学習というスキル。

大体、人生の初期で、その個人レベルでの格差に、みな薄々気がつきます。

学習能力レベルに差異があるのです。


もともと、江戸時代の身分制から解放された我々日本人は、明治以降、四民平等として、大日本帝国の科挙システムに組み込まれました。

当時の帝国主義の時代に、臣民が求められたものは、優秀な兵士と工員と、それを統率する官僚です。

どのルートになっても、情報処理能力が求められます。
そのレベル判別方法が、学校教育において学習結果を判断する科挙(試験)です。


我々日本人は、すでに十代の内からこの科挙のレベル判定の結果、振り分けられます。

優秀な者は上に行けると言う近代以前から見れば、理想的なシステムですが、何せ、人の能力ステータスは平等ではありません。


無論、学校教育のレベル判定は、穴があり、低学歴でも、世に名を成す者は大勢存在しています。

しかし、その低学歴成功者は、よくよく経歴を見ると、大抵は、単に、家庭や素行(若い頃のヤンチャ)の問題で低学歴だっただけであり、
専門分野の仕事や教養について、膨大な読書量や、学習量を保持しているのが基本です。

やはり、情報処理能力の地頭の有無が問題になってきます。




情報イコール金


当たり前の話ですが、情報が生死を決めるのは、人類がマンモスを狩っていた頃からの、基本です。

山に行って、食べられるキノコを判別する知識は、生死を左右します。

専門知識だろうが、経営知識だろうが法律知識だろうが、情報量が収入を決定します。
戦争ですら、情報スキルが無い国は、滅びるだけです。


実質的に、知識・学習能力と、金・収入は同じだと考えてよいでしょう。


それに対して、よく、「馬鹿になれ」系の自己啓発本や教訓が昔からありますが、
これは行動力が足りないインテリへ向けの話であって、本気にしてはいけません。

そもそも、本物の馬鹿は、こういう本すら読みません。


もっと巨視的な観点で言えば、馬鹿になれと進めるのは愚民化政策の一種です。

すでに、新自由主義を推進する政府は、
司法試験を改悪して、貧乏人を合格させまいとしたり、
ゆとり教育やG型/L型大学などという分かりやすい愚民化教育を推進しています。

ちなみに、エリートが通う私立は真逆の詰め込み教育を推進しているのですから、この愚民化教育がわざとなのは明白です。





別種




まあ、厳密に言えば、これは一般論であって、必ずしも学習能力と金運は同一ではありません。

低学歴だけでなく、本気で馬鹿であっても、金運の高い人間は普通に存在しています。

とは言え、現代社会では、まず同一と考えてよいでしょう。


しかし、先ほども述べたように、学習スキルは人によって個人差があります。

人類の大多数の、ステータスが低い人は、どうすれば良いのでしょうか?

学習ステータスが低い人間が、毎日、愚民化の象徴であるテレビやゲームを見て、時間を無駄に浪費したりする間に、学習ステータスが高い人間は、専門書から通俗書まで幅広く深い知識(情報)を蓄えてしまいます。

見かけは同じ人間ですが、その性能は天と地ほど差があります。

インターネットに繋がってなく、かつ性能の悪いPCと、
インターネットに繋がっている、かつ性能の良いPCの比較は言うまでもありません。

この学習能力の差は、下手をすれば同じ人間という種では無いレベルです。
猿と人間の差くらいはあるのです。
見た目が同じ人間なだけで、中身はまるで別物です。


この如何ともしがたい格差をどのようにして埋めれば良いのでしょうか?



種


解決策は、陰徳の実践です。


先ほども述べたように、学習能力と、金運は完全イコールではありません。
もっと言えば、学習能力が無くても、最悪生きていけるのです。
(あった方が断然有利なのですが)


陰徳を積んでいけば、学習能力が無くても幸福・裕福にはなれます。

※実際には陰徳の結果、知恵が開けてくるし、健康になるので脳が正常化(脳の力は腎臓と関係があります)し、学習能力は上がります。



もっと言えば、もし今の自分が、学習能力の低い馬鹿だと自認していたとしたら、それで、苦しむ必要は不要です。

学習能力は基本、遺伝であり、過去の陰徳の結果なのです。
要するに、いまさら変えられないものなのです。
※実は変えられますが一応話の流れとして。

悩むだけ無駄なのです。
「何で今の性別に生まれてしまったんだ!」
と嘆くのと同じレベルの話なのです。

悩み苦しむ時間だけ無駄です。

これが本当の、「馬鹿の考え休むに似たり」なのです。
そもそも、馬鹿なのですから、いくら考えてもいい案なんて出ません。
馬鹿は、考えてはいけません。


何事も、適材適所があります。
難しいことを考えるのは、頭のいい人間にまかせるのです。


なあに、大丈夫です。
世界には、人間種だけで60億人くらいいます。
地球とか人類の未来とかは、この星の何処かの国の天才が、頼まれもしないのに、その高IQで一生懸命考えてくれます。


自分が馬鹿だと自認したら、学習で身を立てるより陰徳にコストを割くのです。

そもそも、この大して根拠の無い陰徳という、いかがわしい物に身をゆだねるのです。
これは、頭の良い者には出来ません。

秀才は、インテリなだけに、こうした非論理的な存在を信じるという知的蛮行が、出来ないのです。
陰徳というのは馬鹿にしか出来ない行為なのです。

貴方が高IQのインテリに勝てる要素はそれしかありません。


その意味で、先ほど、否定した馬鹿になれという話を、舌の根が乾かぬ内に、覆す必要があります。

馬鹿になるのです。


このブログは「学問のすゝめ」の反対なのです。
「馬鹿のすゝめ」なのです。


目指すべき対象は、福沢諭吉ではなく、アントニオ猪木なのです。



この馬鹿になれというテーマは、宗教上、重要なので次回もこれに対して考察しましょう。





2017年7月22日土曜日

陰徳と精神的勝利法②










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精神的勝利法


前回に続き、宗教は、アヘンというテーマです。


基本的に、宗教には、人間がどうしようも無い強大な敵である、運というものについて、精神的勝利するための、太古からの智恵が満載です。

昔から人間が、いかに、現実に勝てないことを言い訳するかを、考えてきたかがわかります。



まあ、そうは言っても、
陰徳という運を操作出来る方法を知っている皆さんには、
関係の無い話なのですが。



さて、そうした人間の、精神的勝利法の神学の叡智を見てみましょう。




○運は経験値論


ゲームも人生も、経験値を積まないとレベルアップできません。

ゲームだと、裏ワザや課金を使ってチート出来ます。

が、通常は、モンスターを地道に倒して経験値を貯め、
段々とレベルアップしないと、ゴールドは溜まらないし、装備もいいのを買えません。

結果、経験を積まないと、強くはなれないのです。


モンスターとの戦闘は危険が伴うし、痛みや苦痛が伴います。

時には、力及ばず力尽きて、王様から
「おお死んでしまうとは情けない」と、
説教を食らう羽目になることもあります。


訓練や修行はつらいものです。
しかし、それを経ることによって人は成長出来るのです。


寝たきりだと筋肉が萎えて、動かなくなります。
筋肉を増強させるには、超回復の原理が必要です。
一度、激しい負荷をかけて筋肉を壊さなければ、なりません。

破壊なくして創造はありません。

ヒンドゥー教の至高の三神は、破壊神シヴァが一柱混じっています。
古い建物があるところに、新しいビルを建てるには、当然、古い建物は壊す必要が生じます。


死と生は表裏一体です。
陰陽の法則は、苦と楽が同じものであることを示しています。
苦しみなくして、不幸なくして、物事は存在しないのです。

人生は苦行なのです。
その意味で、苦行を推奨するバラモン教は正しかったのです。
少なくとも、この世の原理は、楽と苦が表裏一体なのです。

苦という経験値があってこそ、人は偉大に成長出来るのです。

水戸黄門のテーマ曲も、こう言っています。
人生楽ありゃ苦もあるさと。






○運は安定しない論




「禍福は糾える縄の如し」「史記」
「万事塞翁が馬」「淮南子」


諸行無常の原則は、
いつの時代でも誰に対してでも有効です。

この流れは誰にも止められません。


吉凶の禍福は陰陽の関係です。
二本の紐がねじりよられる縄の如く、常に陰陽として表裏一体です。

陰の裏には陽があり、陽の裏には陰があります。
太極図には、陰陽にそれぞれ対抗の兆しの小さい丸がありますが、
陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となるのが自然です。
太陽が頂点に位置する真昼は、すでに夜になるスタートです。


陰徳の話でも、今まで言ってきましたが、
権勢期には、今までの陰徳貯金を猛烈に使い果たしているのです。
さらに、調子に乗って悪事をしたら、その影響力から来るマイナス陰徳は、目も当てられません。

山高ければ谷は深いのです。

要するに、運はコロコロ変わるのです。
これは、自然現象ですのでどうすることも出来ません。





○運は認識論



私は失敗したことがない。
ただ、1万通りの、
うまく行かない方法を
見つけただけだ。

by エジソン


人間は、同じ現象に対して、本人の認識のフィルターを通して評価します。
認識上で感じる幸福・不幸が、同じ現象でも人によって変わるのです。


特に、幸福な時は、過去の思い出を美化する傾向があり、
「今までの苦労は価値があった」
と記憶の書き換えを実施してしまう傾向があります。


これが極まると、マゾ奴隷となり、どんな現象でも苦痛に感じなくなります。
本人の認識フィルターさえかかっていれば、世界は安泰です。
雨が降ろうが槍が降ろうが問題ありません。


わかりやすく言えば、一生、24時間、薬物を摂取(脳内麻薬でも)していれば、
この世はそのまま極楽浄土です。

その意味で、六道の天道の天人は、もしかしたら、環境が極楽なのではなくて、
脳が24時間、麻薬分泌物を量産している生物種なのかも知れません。

最悪の場合、六道の天人というのは、未来の人類で、脳だけ培養液の中にぷかぷか浮いていて、脳に電極が刺さっている、
一生、脳内で、幸福な夢を見ている存在なのかも知れません。





世界の実相というのは、それがどうであろうと、天国か地獄かは本人のフィルターに過ぎないのです。

過去の聖人や修行者やヒッピーの、薬物体験者の記録を見ると、
彼らの目には、世界が輝いて見えています。

当然、世界そのものは別に普通です。
でも、本人の目からは、深い愛と祝福で、かけがいの無い価値として、光り輝いているのです。

反対にうつ病患者の目には世界は地獄の風景を見せます。

外的な世界そのものは変わらないのに、こちらの認識のフィルターによって違う世界になっているのです。



要するに極論すれば、運と言うのは、本人の認識なのです。

事故にあおうが、病気になろうが、戦争があろうが、家族が死のうが、関係ありません。

全ては本人の脳内麻薬の分泌量なのです。





宗教はアヘンどころではありません。

人生はアヘンなのです。




これが法である




以上の精神的勝利法は、全部、外界の事象に対して、自分側の解釈を変える話です。

もちろん、唯物論じゃからすれば、
病気に対する医療、
闘争に対する法、
貧困に対する社会システム、
等々の、抜本的でラディカルな社会的解決策から、
目を逸らすものです。

だからこそ、マルクスの「宗教はアヘン」だというセリフが出てくるのです。
が、実際、外界を変えられない以上、本人の認識を変えるしか、不幸を回避する方法はありません。

世界を変えるよりは、自分を変えるほうが簡単なのです。

皆さんのように、陰徳で運命は改善出来るという裏ワザチートを知らない、世間の愚民は、
世界に無謀な戦いを挑むか、諦めて自分をアヘンで慰めるかしか、人生の選択肢はありません。


豊河は、この衆生の境遇を憐れみたまい、
無知な愚民へと、運命転換の秘術である陰徳の普及をすることを願い、
今後も、一段と、衆生救済の決意を固めるのです。
(この上から目線)







2017年7月21日金曜日

陰徳と精神的勝利法①











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君がいないと何にもできないわけじゃないと



ものすごく今更ですが、そもそも、このブログは、開運をテーマにしています。



しかし、当たり前ですが、運の良い人は、わざわざ開運なんて気にしません。

運そのものにも、意識を求めないでしょう。



健康な人は、体の健康のことを意識しません。

水に溺れたり、空気が汚染されたり、呼吸器官が悪くならない限りは、
酸素のことを意識しないのと同じです。


水と平和はタダというのは、戦後の日本人の常識です。

北朝鮮からミサイルが飛んできたり、放射能で水が汚染されて、ようやく気にするようになるのです。


3.11で、計画停電という示威行為がされたことは、記憶に新しいのですが、
当時は、「愚民どもよ、電気のありがたさを知れ」と、犯罪テロリスト企業の東電が普通に、仰っていました。

資本家は生産手段を支配するというマルクスの言葉通りの大変分かりやすい具体例でした。

この、犯罪者の開き直った態度に、日本国民は激怒しましたが、大きな目で見れば、これも先の話と、同じ範疇の話です。

人間は、電気を含めて、平常使われている物に、あたりまえだという認識を持つのです。

何かあって、ようやく、その存在の価値を知ることが出来ます。
失ってから初めて、人間はその価値に気づくのです。

あのボンクラの、のび太でさえ、ドラえもんがいないと部屋ががらんとして寂しいと気づくほどです。



そしてこれは、運と言う存在も同じです。





俺達は世界最強である。
なぜなら、俺達は世界最強だからだ。



癌で無い人は、医者でもない限り、癌のことを勉強しません。

自分に関係無いからです。

差別も貧困格差も、自分に関係なければ、普通は関わり合いません。

運のことも同様で、自分の運に不満があるからこそ、運を改善する方法を、調べます。



しかし、運の改善というのは、そもそも矛盾した概念です。
改善含めて、人為的に後天的に操作出来ないから、運と言うのです。
簡単に改善出来る物なら、運とはいいません。

道端の邪魔な石ころのことを、不運とは言いません。
石ころは簡単に排除できるからです。

簡単に改善出来ない邪魔な事象を、運、運命、命運と呼びます。
そして、簡単に改善出来ないからこそ、運の改善は難しいという堂々巡りの、トートロジー(同義語反復)です。


幸い、このブログに出会えた皆様は、陰徳という、この改善が難しい運という物の対処法を知っていますが、大抵の人は、自分の運に、不満をもって生きていくしかありません。



上から目線のてんこもり



宗教はアヘン、というマルクスの金言は、古今東西を貫く名言です。

一般にこの言葉は悪い意味で用いられ、
宗教は、社会的矛盾や搾取を是認しているという意味で使われます。

しかし、愚民を騙していた歴史の宗教を、批判している現代人は、言論の自由や政治的信条の保障がある安全な時代から、上から目線で批判しているだけです。

実際に、近代以前に生まれて(記憶を持ったまま異世界転生でもいいですが)、
ご政道批判を出来るのか?
革命を起こして民主主義を実施できるのか?
と言えば、答えはNOでしょう。

分かりやすく言えば、北朝鮮に生まれて、革命を起こせるような人間は、ほとんどいません。
できるとしたら、それは英雄か他国の工作員です。

異世界転生物だって、女神からチートを貰って初めて無双できるのです。
転生時に、何らかのチート能力を貰わないと、異世界で無双は、不可能でしょう。




アヘン・・・!飲まずにはいられない・・・!


アヘンでも、やらなければ、人生やってられないのは、昔も今も同じです。

現実逃避の、アヘン代わりの娯楽は、いつの世もなくなることはありません。

酒やタバコや漫画もゲームも映画も小説も芸術も、全てその類です。
あのウルトラ統制国家の江戸幕府だって、農民の下に穢多非人を作って、農民のガス抜きをしていたのです。


運に関しての不満を、宗教やその他のアヘンによって、緩和し、ようやく人生を歩んでいくことが出来るようになるのです。

幸運な人は、自分の脳内麻薬物質を分泌して、人生を謳歌していますが、それが出来ない人は、外部のアヘンに頼るしかありません。

※それが、娯楽というアヘンなのか、リアルのアヘンなのかは別ですが。



この運に関しては、あまりにも人によって不公平なので、宗教や古典は、昔からこれについて民衆を宥める役割を負っています。

人生はストレスがかかるのです。
上も下も同じです。

不満のガス抜きというか、信者に対して、この不公平を、合理化しなければ、自分たちの救いの教義と矛盾するからです。


以前も指摘しましたが、基本、宗教の基本は、どんな苦難でも歓んで受け入れるマゾ奴隷を養成することです。

外界の苦難は変えられなくても、それを受け入れる側の人間の認識は変えられます。
普通の人には鞭で打たれるのは苦痛ですが、マゾ奴隷にはご褒美です。

これは、洋の東西を問いません。
所詮、宗教は、人の枠を超えられないのです。
不老不死にはなれないし、空も飛べないのです。

外界の現実が変えられない限り、内面の認識を変えるしかありません。


本人にとって、変えられない外界の不幸を解消することが出来るし、
統治者にとっても、自分の失政や搾取による、大衆の不満を解消できるし、いいこと尽くめなのです。

お金や資源は、リソースに限りがあり、万人に分け与えることは出来ません。
しかし、抽象的な自分は幸福だという教義なら、いくらでも与えることが出来るのです。

倒産前の空手形は、いくらでも切れるのです。
死後、天国や極楽浄土に行くことが出来るという空手形は、現実の死という倒産まで、有効なのです。



さて、この手口に関して、特に運についても、いくつかのテンプレがありますので、
いくつかご紹介しましょう。




長くなったので次回に続きます。




2017年7月20日木曜日

陰徳とイエスが出会うとき、そこに奇跡が生まれる・・・!









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まるで権威ある者のように教えられたからである



陰隲録で、こうして陰徳を、プロパガンダしているこのブログですが、
何せ、豊河のブログと言う、影響力の無い、
言ってしまえば権威の無い媒体です。

せっかく、陰徳を知ることが出来ても、権威が無いために、信用性が低く、結果、陰徳の実施率が低いのでは?という、一抹の不安を感じます。


そのため、衆生救済という豊河の、慈悲の本誓から外れてしまいます。

皆さんにぜひ陰徳による開運を経て、悩み苦しみから解放され、幸福を得て欲しいというのが豊河の誓願です。

そして、皆さんという、陰徳ねずみ講の、子ねずみが善行を積んだことで、親ねずみの、豊河の陰徳が高まるのです。




さて、基本的に、ベストセラー「影響力の武器」でも言っているように、人間は権威に弱い生き物ですので、
人類史上屈指の聖者(自称)である豊河が、しつこく陰徳しろよと、言ったところで、馬耳東風に聞かない人たちも、
権威者の言うことなら、聞く可能性が高まります。




そこで、権威の最高峰を、用意しました。

全世界で20億人もの信者を抱える世界最大の宗教の権威であらせられるイエス様です。



なにせ、30歳で大工の身分から、世界最大の神(厳密に言えば神の子)にまで、立身出世した男です。
その凄まじい権力は、現在の世界大帝国のアメリカ大統領に匹敵します。
いよっ!大棟梁!

島耕作もサラリーマン金太郎も、彼の前では、出世組として、足元にも及びません。
まさにグローバルスタンダードの勝利者です。




そんなイエス(様をつけないとマズイな)の言葉は、新約聖書に記載されています。

陰徳的な発言を探してみると、
有名な、山上の垂訓の文中が、該当します。


マタイによる福音書の第6章です。



該当箇所を見てみましょう。
イエス様の上から目線のありがたいお言葉を聞きましょう。





6:1
自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
6:2
だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:3
あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。
6:4
それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。



普通に陰徳ですね。

しかも、他人に知られないレベルではなく、自分自身の内部(右手と左手)でさえ、情報共有しない徹底振りです。

いくら何でも右手のしていることは左手も知ってるだろとツッコミたいですが、まあ比喩(レトリック)ですので。
それほど、陰徳を徹底しろということでしょう。





6:5
また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:6
あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
6:7
また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
6:8
だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。



24時間、ヤハウェ様が見てる
マリみてならぬ、ヤハみてです。

どうでもいいですが、ヤハウェ様も大変ですね。
人類60億人を24時間の監視体制です。

まあ、たぶん直接見ているのではなくて、下請けの天使部隊に丸投げしているのでしょうが。

我々がこうしている間にも、ヤハウェ様の下請けのIT土方の天使が24時間体制で、どこかの天界データ監視センターから、モニター画面を通して、我々を監視しています。
陰徳を絶対見逃さないマンです。
安心、安全の監視体制のデストピアです。





6:16
また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:17
あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
6:18
それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。




苦行に対して、神が賞賛するのは、インドの神々と同じですね。
苦行が善行のような扱いがされていますが、そういや、イエスも、40日間の断食コースを実施していました。

なんだかんだ言いながらも、釈迦もイエスも断食とか苦行やってるんですよね普通に。



6:19
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
6:20
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
6:21
あなたの宝のある所には、心もあるからである。



これが、「天に宝を積んだ」の慣用句の、元ネタです。


実際の、貯金や貯蓄は、安全性の問題がいつも付きまといます。

何しろ、金融の歴史は、金融破綻の歴史です。
今まで価値があった債権が紙くずになるのが、繰り返されてきた人類の歴史です。

銀行の歴史も、同様です。
日本ですら、新円切り替えや預金封鎖などは、つい前世紀のことです。

およそ、企業や政府は泥棒ですので、容赦なく、定期的な倒産詐欺で、使い込んだ金を踏み倒すのです。
江戸時代ですら、債務帳消しで豪商が殲滅されています。
時代が変わっても、人間のやることは変わらないのです。



金に換金して溜め込んでも、物理的な泥棒や家族が取っていってしまいます。
土地ですら、バブル崩壊で下落し、所有権も奪われてしまいます。

陽徳で人に恩義を売っても、恩知らずは平気で仇で返します。


ところが、陰徳だけは別物です。

天に積んだ貯金は、天変地異があろうとも、戦争で政府がクラッシュしようが、なくなることはありません。
地上の債権は踏み倒しが可能です。
※今も、世界中で破産申請が行われています。

どんな大泥棒も盗むことは不可能です。
お姫様の心を盗むルパンでさえも、不可能なのです。




おまけに、注目すべきは、その驚異的な運用利回りです。

陰徳やその反対の悪業には、利子が付くらしく、投資額に比べて莫大な利回りが、加算されて戻ってきます。

一番大きいのは、死後の後世で、どう考えても、ローコスト・ハイリターンな応報の結果になります。

一般に宗教が唱える天国地獄の待遇は、プラスでもマイナスでも、
この世の投資額にしては明らかに、過剰な利回りです。

しかも一神教の天国地獄に至っては、リミットが無く、どちらかに行ってそのまま永遠です。





それにしても、旧約聖書で、
ヤクザ神と組んで、妻を妹と偽って美人局していたアブラハムや、
親を小細工(身分詐称のなりすまし)で騙して、相続権を強奪したりしていたヤコブとか小悪党の、
子孫のイエスですが、彼らのような金の亡者の血統から、
なぜこのような禁欲主義者が出てきたのか?

あなたがたに言うが、
「富んでいるものが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
 (マタイによる福音書)


まあ、旧約~新約は、1000年単位の時間の差がありますので、
強欲盗賊集団だったイスラエル人も、悔い改めたのでしょう。
何代か、陰徳を積んでいけば、こういう偉人聖人も現れるという良い実例ことかと思います。

何せ、ユダヤ人は収入の一割寄付が今でも習慣としてあります。
律法をヘイトしていたイエスですが、ユダヤ人のこの習慣がイエスを生んだり後のユダヤ人の金融支配につながっていったのは、偶然では無いのです。

個人単位でやってると家系だけの繁栄ですが、民族全体でやっているとここまでの効果が出てきます。


今、日本は世界第三位の繁栄を謳歌していますが、今までの陰徳の福分が無くなれば、
元の貧しい島国に戻るでしょう。

今からでも、日本が国内・国外に、寄付の習慣を始めることが出来れば、延命の可能性は高くなるでしょう。















諸法無我とは?②











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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。

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机上の空論


諸法無我という良くわからない教義の続きです。

基本、宗教は、三位一体とか意味不明な教義が発生しやすいのです。



さて、前回の二つ(空間的な依存関係と、相対的な関係の空)が代表的な、諸法無我の解釈です。

が、何せ、2500年間も続いた宗教です。
キリスト教の神学論争の如く、他にもダラダラと、色々解釈があります。

↓の空の解釈参照。
般若心経コンテンツの準備 パトラッシュ、僕はもう疲れたよ・・・もう・・・ゴールしてもいいよね



世の中というのは、大多数の人間が汗水垂らして労働しているのに、やることが無い暇な連中というのが、結構存在しています。

その連中は、労働が無くなったら、文化活動に励むのが普通です。
芸術とか哲学とか神学とかそういう方面にエネルギーを向け始めます。
まあ、戦争や権力闘争に向かうよりは、まだマシなのですが。

古代ギリシャもそうですし、中世ヨーロッパもそうです。
労働は奴隷にまかせて、貴族や坊主は、暇つぶしに哲学を延々と捏ね繰り回しました。

そのせいで、煩瑣でクレイジーな神学が洋の東西を問わず、存在しています。

だいたい、現実無視の唯心論になるのが、普通で、これは仏教でもキリスト教でも同じ傾向です。
机上の空論は、唯心論になりやすいのです。



宗教はアヘン


  上記の二つの、解釈はな、まだ存在そのものがあるということは認めています。
が、
解釈や人によっては、存在すら認めない派閥が存在します。

空や自我が無いというのは、言葉上の定義ではなく、
マジに存在そのものすらない、
という、唯心論のハードコアな意見です。

インド哲学で言う世界は幻影だという意見に近い解釈です。

人類の歴史として、だいたい、ここまで来ると、反動的な唯物論派が出てきます。

唯心論は、現実から逃避するため、現実社会の問題と向き合わない傾向があります。
支配者の論理と相性が良いため、悪用されやすいのです。

要するに、自らの非道な統治をあの世で報われるとチャラにする手法ですね。

近代でも、共産主義という唯物論が出たのは、それ以前に、民を虐げる唯心論的な宗教が支配的だったからです。



実はどうでもいい


そもそも、諸法無我の議論は、さらに議論そのものの、ちゃぶ台返しとして、

諸法無我の諸法は、一般に思われているような一切の意味ではない。
限定的に、無我なだけだ。

とか、
諸法無我は、無我とは言っても、初期の原義は、別に自我が無いというような哲学的な意味ではない。
あくまで自我(エゴ)に執着するなという倫理的な意味で言っていただけであって、自我が存在しないという意味ではない。


と言った、解釈もあります。


しかし、これらの解釈にしても、実は、仏教的に見れば、どんなのだろうが、あまり意味はありません。

実は、人間に、自我があろうがなかろうが、ぶっちゃけ、どうでも良いのです。


いまさら何だ?
と思われるでしょうが、これは、前回も出した三法印(四法印)の文脈を読んでみると、わかります。

諸行無常
諸法無我
一切皆苦
涅槃寂静

三つ目の一切皆苦や、ラストの涅槃寂静を見ればわかるとおり、要するに、現世含めた存在そのものに対して、ネガティブな世界観が仏教です。

自我があろうがなかろうがどうでも良いのです。
あっても、なくても、仏教的にはこの六道の中の、ろくでもない物であるという認識には変わらないからです。




有名な無記の話でもありますが、世界がどうだという真相究明や科学探求は、ぶっちゃけどうでもよいのです。
仏教では二の次なのです。

自我があろうがなかろうが、苦であることには変わらないのです。

どうせ解脱して、涅槃寂静しちゃう、エスケープ対象の世界なので、仏教的にはどうでもいい扱いなのです。




ヘイトスピーチ法話




実は、この三法印(四法印)ですが、本当は簡略版なのです。

有名なこのフレーズは、
後の時代に、教義的にコンパクトにまとめているだけで、
パーリ語の経典では、本当はもっと種類のパターン数があります。


世界は~、自我は~、と言う形で、
~の部分にネガティブなヘイトスピーチが入る形なのです。
要するに世界を呪っているのです。

パーリ語の経典を見ると、
世界は無常である。
世界は無我である。
世界は汚い物である。
世界は癌細胞である。
世界は刀槍のように危険な物である。
世界は~。
世界は~。
世界は~。


と、ごたごた、世界や自我への、呪いの罵詈雑言が並びます。


三法印(四法印)の涅槃寂静以外は、このような、存在へのヘイトスピーチの羅列の一部を抜粋したものです。


色々ありますが、要するに、存在はろくでもないという一言でまとめられます。
もっと言えば、一切皆苦です。



要するに、 三法印(四法印)は、二行にまとめれば、
一切皆苦と涅槃寂静の二行だけになります。

世の中はクソだ!
だからエスケープする。


まとめれば、仏教の教義は、これだけの話なのです。
あの汗牛充棟の八万四千の法門の経典は、この二行だけなのです。






ちなみに、仏教学者の中村元は、
無我の部分は、原義語としては、諸法無我は、無我というより非我の意味らしいことを言っています。

これは、我では無い。
あれは、我では無い。

などという感じですね。

要するに、我ではないから、所有権が無いし、自分の思い通りにもならないと。

四苦八苦の中に、
求不得苦(ぐふとっく):求めても得られない苦しみ。 
が、ありますが、自分(我)ではないから、思い通りにならないと言った感じですね。
同じ意味です。
自我の有る無しの分析よりは、よっぽど原義に近いと私も見ます。


結局、仏教の本義は、苦しみからの解放です。

哲学的論議を一蹴した、無記の話も、有名な毒矢の譬えを出しています。




仏教説話



初期の仏教経典である阿含経に収められた釈迦の説法のひとつとされるものに「毒矢の例え」がある。ある人が釈迦に、「この世は永久のものでしょうか、無常のものでしょうか。世界には限りがあるのでしょうか、無限のものでしょうか…」等々、次々に質問を浴びせた。釈迦はその質問に直接は答えず、「毒矢に当たった者が、矢を抜く前に『矢を放った者は誰か、矢の材質は、私を診察する医師の名は、その階級は…』と聞いていたらどうなるだろうか。」と言い、真理を知るためには順番があると諭した。


苦しみから解脱するのが先決だから、哲学的論議はどうでもいいと言うのが釈迦のスタンスです。




現世で存在する限り、生命とは、何をどうしようが、
自我も含めた対象が、諸行無常でガンガン変わっていくし、
自分の思い通りにならないし、あらゆる苦しみに容易に変化していく、その可能性がてんこもりの地獄なのです。



六道にいる限り、いつ地獄の蓋が開いて堕ちるとも限らないのです。
だから、とっとと逃げましょうというのが、釈迦のスタンスです。





まあ、この意味で、仏教も、恐怖を布教のタネにする他の宗教と同じです。
世紀末や世界の終末をネタにしたカルト宗教と、根っこは一緒なのです。

これは、宗教と言う形式上、共通の構造なのでしょう。

ただ、他宗教が、救いの後にまだ存在することを前提としているのに、比較して、仏教は存在そのものを否定します。

他宗教がハルマゲドンの絶滅から逃れようとしているのに比較して、
自分から絶滅に向かうところが、他宗教との違いでしょう。


まあ皮肉なことに、世界宗教のこういうところが、権力者に悪用されるのは、先にも書きましたが、歴史が証明しています。

これらは、本来、俗世から離れて山林で出家する世捨て人や、象牙の塔で机上の空論をこね回す僧侶階級の論理です。

しかし、権力者と相性が良いため、現世で権力者に逆らうなというロジックになりやすいのです。

ここらへんは、いずれもっと詳細にやりましょう。






2017年7月19日水曜日

諸法無我とは?①











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今日は、諸法無我という訳のわからない物を考察してみましょう。





諸法無我


以前、般若心経コンテンツを構築するにあたっての、現状の豊河が調べた空の解釈をまとめた進捗記事を、書きました。

般若心経コンテンツの準備 パトラッシュ、僕はもう疲れたよ・・・もう・・・ゴールしてもいいよね


ダラダラとやたらたくさんあり、閉口しましたが、空だけでなく、諸法無我も実は同じです。

やっぱりダラダラとダラダラと、いっぱいあります。




一般に、釈迦が発明した真理は、三法印(四法印)です。
縁起の法則と並んで、仏教の基本教義です。

諸行無常
諸法無我
一切皆苦
涅槃寂静

この四つです。


仏教国の日本人なら、普通に聞いたことのある教義です。
そのため、この四文字熟語についても、何となくのイメージはつきます。



諸行無常→平家物語ですね。祇園精舎の鐘の声。わかります。
諸法無我→自我が無い?は?
一切皆苦→生きるのって苦しいよね。
涅槃寂静→そうだ。彼岸に行こう。



諸行無常は、まだわかります。

時間軸のシフトによって、どんどん環境は変化していきます。
権力者だろうが、国家だろうが、必ず滅びます。

猛者はついには滅びる。
※弱き者もやっぱり普通に滅びますが。
祇園精舎の鐘の声は学校で習ったので、何となく理解できるのです。



一切皆苦や涅槃寂静もまだわかります。

人生は苦しみばかりだとか涅槃にGO!と言う心情は、日本人的になじみの深い概念です。

※たぶん、涅槃と浄土がごっちゃになっていると思いますが。



しかし、諸法無我となると、途端に理解のハードルが高くなります。

自我が無いとは一体どういうことでしょうか?





一般的な解釈



諸法無我については、空と同じく、色々ダラダラと、解釈があります。

なにせ、自我が無いという無茶な理屈です。
詭弁でも使わないと、論証出来ません。



一般には、
時間軸の諸行無常に比較して、空間軸の諸法無我という考えが一般的です。

何言ってるんだ?
と思われるでしょうが、
どちらも、世界は、移ろいゆく、儚い物ということです。

要するに、諸行無常は、時間の流れで、物事が変化していきます。
それに対して空間の三次元の中で、色々、自分以外に関わり合っています。

自分という存在が、変化したり、依存していたりしているということです。

世界の構成物は、全部、一切合切が、
時間軸や空間軸を通して見たら、安定した絶対的な物は無い、と言うことがわかります。


人体一つ取ってみても、色んなパーツで出来ています。
外部からの食事やその他諸々の要素の恩恵で、ようやく生きています。


他の存在との、ネットワークの中心にいる自我は、それ単独では存在できません。
あらゆる外界の物とのネットワークで構成され、生きています。



大体、上記が一般的な諸法無我の解釈です。

自我や万物に各個とした自我は無く、ただ唯名論的に、自我や万物の個々の名前が、仮にあるだけと言った解釈です。


他にも、自分の思い通りにならないから自我ではない(非我)という解釈もあります。
肉体も精神も社会的地位も、なにもかも思い通りになりません。
勝手に、諸行無常でコロコロ変わり、滅んで行きます。

もっと言えば、思い通りという自我すらも、因縁によって勝手に生成されているのです。
自分の思想や思考や行動すらも、自分の決めたものではなく過去からの因縁によって、
自動的に生成されたものなのです。





大乗



さらに、時代が下って、大乗仏教の時代になると、
主題は、空の教義になってきます。

そのため、空の相対論的な解釈で諸法無我が、語られるようになってくるのです。





例えば、親子という関係性があります。
親と子の二者で構成されます。

この時、重要なのは、親はあくまでも子供がいる前提で親と呼ばれます。
逆に子がいなければ親と呼ばれないわけです。


だから、親は子供の存在との関係性があって、初めて親と呼ばれる。
全ての存在は、相対的な関係性の中でしか存在しない。

~であるということは、すでに言語化している時点で分別智であり、すでに本質の実相から離れている。
言語化された一切の存在は空であり、諸法無我である。


と言う、言葉遊びのようなロジックが言われるようになります。
たぶん、ここらへんの話は、日本人なら、一度や二度は聞いたことがあると思います。



まあ、先ほどの解釈と共通しているのは、他の存在とのネットワークの中にあるから無我ということです。

仏教は、教義的に、存在否定論なので、この世の一切の存在や自我という、固定的で常住普遍な存在を認めないのです。

当然、これは、宇宙を創造した絶対神の存在も認めないということです。

有る(我は在る)ということを前提にした西の一神教と、
無い(諸法無我)ということを前提にした東の仏教の、
東西の文明の衝突です。



諸法無我の話は、長いので、次回もいたします。