2018年6月25日月曜日

【弁仏論】因果応報論の一大ネックである差別肯定思想について 反論②業の窃盗自由 その③











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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。







因果応報という、バリバリの差別思想を、無理やり擁護するための弁仏論を張る豊河。



とりあえず、



①業の不可知性
②業の窃盗自由
③業の空性
④業の無効論



の、4つの反論を無理くり捻り出す豊河。





2つ目の、

②業の窃盗自由

が開始しています。



業は他人論


要するに、窃盗を正当化する論理を構築しなければいけないのです。
盗人にも三分の理と言いますが、三分(三%)どころでなく、100%肯定しなければいけないのです。


とは言え、今まで、①業の不可知性で述べて来たことで、実質回答しているようなものですが。

業は、ストック状態がわからないから、別に、助けられる側のカルマ(悪業)はもう、この瞬間、終わってるんじゃね?
という、回答です。
※まあ、厳密に言えば、終わっている保証も無いのですが。

要するに、業の解消は盗まれた(助けられた)時点で、もう終わっている。
業は見えないため、そうじゃない証拠はどこにもない。

こんな感じですね。



ちなみに、恩知らずのインド人に、食ってかかられたら、
インド人はイスラムと仲が悪いので、
「お前の業は私に助けられる業(予定)だったのだ。全ては神のみぞ知る。インシュアラー」
と言っておきましょう。

※余計喧嘩になるとは思いますが。



で、前回(①業の不可知性)と同じだと、面白みがないので、無い頭を捻って、
もっと、合理化してみましょう。
理屈と膏薬はどこへでもひっつくものです。


で、困った時は、原型に戻るのがセオリーです。
そもそも、業というのは、元々、関係性で成り立つ代物です。
それ単独では成立しない概念なのです。


関係性とはなんぞや?
というと、要するに、自分と他者がいて始めて成り立つものなのです。

囲碁も将棋も戦争も格闘技も恋愛も結婚も葬式も、どんなイベントも、自分だけでは出来ません。
必ず、相手がいて始めて成り立ちます。

ぶっちゃけ、輪廻は、所詮、一人一人の業による自己責任なのですが、業そのものは、必ず他者に繋がっています。

他者がいなかったら、陰徳すら出来ません。
善業も悪業も出来ません。


さて、この他人がいないとどうしようもないという絶対的な条件が業です。
一人で無人島にいても、陰徳もカルマも積めません。


我々が、業のことを考える時には、この条件がどうしてもからんできます。

業というと、まるで自分の中だけに存在するカルマのように思えてきますが、実際には、全部他人がからんでいます。

病気のカルマとかだと、他人はあんまり関係ない気もしますが、病気になったり健康になったりする業は、他人に対してやったことの現れです。

早い話が、カルマとは、業とは、他人(人でなくても)のことであると言ってもいいかも知れません。


業とはぶっちゃけ、他人のことなのです。

他人を殴るか、祝福するかのことを言っているだけなのです。
どっちに転んだとしても、他人がいなければ始まらないから同じことなのです。

サルトルが「地獄とは他人のことである」と言ったのは、(実際のサルトルが想定した意味としてはともかく)正しいのです。


現代社会は、他人というよりコミュニティに参加しなくても生きていける(厳密には関わっているが)社会なので、
ひきこもりを始めとして、他人に関わる面倒なことをしなくて済みます。

※というより、実質、出家修行者は、ひきこもりのようなものですが。

しかし、他人が関わらないと業が構築出来ません。

そのため、最悪、他人に関わらなくとも、途上国や神社仏閣に寄付寄進するという「他人への関わり」をしないと、徳が貯まらないのです。

めんどくさいでしょうが、これが世界の真理なので、我慢して他人に関わりましょう。


で、次回に続きます。




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