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その事例が、他の閲覧者様の、新しい積善改過の参考となり、
そしてそれが、さらに陰徳になるという、好循環のスパイラルです。
楽→無明パターン
前回は善(木)→楽(火)のパターンでした。
今日は、楽(火)→無明(土)のパターンを考えてみましょう。
で、今まで言ってきたように、ここの流れは本来、春夏秋冬の4つの自然の流れを五行にするために無理やり入れたものです。
善楽悪苦の春夏秋冬の流れは、普通に因果応報で納得出来ますが、ここに土が、無理やり入っていますので、すんなりわかりにくいのです。
しかも、土が無明と私が勝手に暫定的に入れていますが、無明よりも、もっとあてはまる概念があれば、そっちでも全然構いません。
というより私が適当に書いているだけですので、そもそも、地球のどこかでもっと良い体系を書いてる人がいるかもしれませんので、知っていた方がいらっしゃいましたら、豊河に教えて下さい(他力本願)。
で、前にも言ったような気がしますが、善楽悪苦の間に挟まる土行ならば、それらの連結を表す業(カルマ)の方がよさげな気がします。
まあ、そっちの方がよいと思ったらしれっと変えますので、先の記事で、やっぱり土は業にしますということになるかも知れません。
まあ、ノリ(天啓)で書いているブログですので、気にしないでください(無責任)。
さて、今回の楽→無明は、火→土の流れの相生です。
火が燃え尽きると、土に還るとかのロジックです。
その前は善→楽、木→火ですので木が燃えて火になる。
それに比べて火が燃え尽きて灰になって土になる。
まあ、火山灰とかありますから、あながちロジックとしてはなんとかなっています。
で、善→楽は、良いことをやると因果応報で楽になる。
ということでした。
で、楽になると今度は無明になる。
という、ロジックです。
楽は真理を見えなくする
楽になると無明って何だ?
と思いますが、ぶっちゃけ言うと、要するに、人間、調子に乗るとバカになるという、ただそれだけの話です。
要するに、恵まれた子供は、性格が悪いボンボンになるとかそういう話です。
人間、苦労しないと人格が練れないとか、艱難辛苦、汝を玉にすとかそういう類の話ですね。
苦労しないと人の苦しみがわからないとか、悪人が、自分がひどい目にあってようやく他人の痛みが理解出来た!とかそういう話です。
要するに、善行を行って因果応報で楽果があると。
金や健康や権力や名声が手に入ったと。
みなさんが、陰徳をやって運命開運して、ブルジョア階級になったとしましょう。
ここまで善→楽の段階ですね。
物語的に言えば、めでたしめでたしの段階です。
ところがその後が問題です。
開運して金も入った。美女を娶り、豪邸を建てて、権勢は雲をつかんばかり。
しかも、権力を得るということは決断をしなければならないということです。
組織のために、養う構成員のために非常の決断をしなくてはならない。
要するにいい人ではできない決断をすることになる。
まあ、それが楽→悪の段階なのですが、ここらへんは次でやりましょう。
楽から無明ですが、余裕ができてくると、上から見えてくるものがありますが、同時に、真理(仏教的な)を見えなくなるというものは確実に出てきます。
個人レベルでさえ、功成り名遂げて老後に恥をさらす例は山とあります。
※豊臣秀吉などが有名。
偉くなる、金持ちになるということは、危険性がますのです。
真善美
では、これはどのようなメカニズムなのでしょうか?
なぜ、楽になると無明になるのか?
これは、要するに執着するからです。
人間は苦痛にはある程度、耐えられます。
しかし、快楽には耐えられないのです。
人間は生物なので、生への執着が遺伝子的に激しいのです。
楽な状態をキープしたがるのです。
※安全に、生殖活動が出来るようになるから。
そして、ここで認知のゆがみが生じてしまうのです。
すなわち、
快楽な状態が続く。
→快楽な状態を無くしたくない。
→この状態がずっと続けばいいのに。
→(認知の歪み①)この状態はずっと続くに違いない。
→(認知の歪み②)この状態は正しいに違いない。
こんな感じに、人間の認知は歪んでしまうのです。
これは、例えば、超美人な女の子がいたら、男は、その娘の性格まで綺麗だと正当化してしまう例などです。
自分に都合の良い、快楽な状態や対象を、執着のために正当化してしまうのです。
人間の認識というものはこういうものです。
輪廻の解脱を阻む、煩悩は無明と執着の2つです。
この2つは車輪の如く、2つ一緒でグルグル回るのです。
要するに、楽→無明パターンというのは、楽(執着)→無明パターンなのです。
人間は気持ちいいことを正しいとしてしまうのです。
真善美という言葉があります。
真実は善であり、同時に美であると。
たしかに、そういうものもあります。
例えば、真実と美は良く組み合わさります。
武術や芸の達人の動きは、理に適っており美ですし、数学の公式なども、数学者は本物の数式は美しいと言います。
しかし、善かどうかは別です。
当たり前ですが、真実はともかく、美と善というのは別物です。
昔、ギリシャでは真善美がセットで讃えられていたため、容疑者の美人が法廷で裸になって、聴衆や裁判官が、こんなに美しいのだから無罪であろう(真善美ですね)と、勝訴を勝ち取ったことがあるくらいです。
芸術家のその至極の美の制作物に反して、社会不適合者が圧倒的な例などを見ればわかるでしょう。
巧言令色鮮し仁とも言いますし。
まあ、とは言え、厳密に言えば、真善美は結構、セットのこともあります。
言葉にしろ芸術にしろ、3つセットのことが多いのは認めます。
が、無条件にセットだと信じるのは認知のゆがみです。
ちなみに、真善美がセットだというのは人間の思考の枠組み(歪み)の一つですので、3つ揃えなくても2つくらい揃えちゃうと、残りの一つは勝手に見る人が補完してくれます。
これは、当然、現世の方便に使えるテクニックですので、頭の隅に入れておきましょう。
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